館長室から

#2 皐月 「菅江真澄運動」の提唱

2014.5.26

天明5年(1785)、菅江真澄は蝦夷地渡航の待機期間を利用して津軽藩領から南下、秋田藩領を経て、盛岡藩から仙台藩領内各地を旅した。未だ、その名は白井秀雄、あるいは三河の秀雄と名乗る時期であった。
 そして、同8年(1788)、再び蝦夷地を目指して北上を開始するまでの足かけ4年間、彼が各地で見聞した内容を『けふのせばのの』など7つの日記にまとめた。彼の足跡をたどってみよう(地名はいずれも旧表記)。
 盛岡藩領内は、二戸郡(安代町・浄法寺町・一戸町・二戸市)、岩手郡(岩手町・玉山村・盛岡市)、紫波郡(都南村・紫波町)、稗貫郡(石鳥谷町・花巻市)、和賀郡(北上市)を巡り、とりわけ花巻・黒沢尻で歓待されている。
 4年間の大半を過ごした仙台藩領内では、江刺郡(江刺市岩谷堂・同稲瀬、水沢市黒石町・羽田町、北上市稲瀬町・口内町)、胆沢郡(水沢市・前沢町・胆沢町・金ヶ崎町・衣川村)、西磐井郡(一関市・花泉町・平泉町)、東磐井郡(千厩町・大東町・東山町)を巡っている。
 徳岡村(胆沢町)の村上家、六日入村(前沢町)の鈴木家、善阿弥(平泉町)の千葉家、山目村(一関市)の大槻家、大原村(大東町)の芳賀家など、各地の肝入・大肝入の家に滞在し、肝入たちのネットワークの中での行動であった。
 真澄の日記の内容は、当時の農民生活の諸相を詳述したもので、今日の民俗学の記載内容に合致する。柳田国男が命名したとおり、まさに真澄は「日本民俗学の先駆者」である。
 従って、その日記類、そして真澄を研究することは、現在改めて要請されている私たちの故郷の歴史や文化を研究することに通じる。
 しかも、これほど各地に足跡を残していることは、岩手県を挙げてそれに取り組むことができる可能性を示している。
 その取り組みの結果、真澄の終焉の地であった秋田県に見られる「真澄の足跡を示す標柱」と同様のものが岩手県内各地に建立されることを夢見ている。

春
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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