館長室から

#5 葉月 旧江刺郡は「仏教の聖地」!

2014.8.6

旧江刺郡には平安仏が非常に多く保存され、厚く信仰されている(江刺郡の領域は、現在奥州市江刺全域、水沢区のうちの黒石町と羽田町、北上市の稲瀬町と口内町の一部で構成されていた)。
平安仏の最も古い像は、貞観四年(862)の胎内銘をもつ黒石寺(水沢区黒石町)の薬師如来坐像(国重文)である。次いで、藤里毘沙門堂(江刺区藤里)の兜跋沙門天立像は、安倍氏時代に該当する西暦1000年ごろの作である。
また、寺院跡も存在し、9世紀半ばから11世紀末まで継続的に山岳寺院が営まれたことで有名な国見山廃寺跡(北上市稲瀬町)は、旧江刺郡下門岡村に位置する。この寺院の最盛期は11世紀の後半、清原氏の時代であった。即ち、ここは平泉以前の仏教の中心地であったのである。
さらに、奥州藤原氏初代清衡夫妻が発願し、自在房蓮光の監督のもとに8年間を要して完成された「紺紙金銀字交書一切経」(国宝)の写経所は「江刺郡益澤院」であった。
何故、江刺郡に「仏教の聖地」ともいうべき性格があったのであろうか。その解明のヒントがイワヤドウという地名ではないか。
イワヤドウは石屋・岩屋・窟に洞・堂が結合した言葉であり、意味は窟・洞穴である。歴史地理的には、江刺郡の中心地である岩谷堂の地名である。岩谷堂の地名の起源がどこまで遡るかは不明であるが、嘉祥年中、慈覚大師開基の伝承のある真言宗多門寺の山号は岩屋戸山であり、これは岩谷堂であろう。即ち、この地に、地名になるほどに顕著なイワヤが存在したと考えて大過なかろう。
洋の東西を問わず、古来、イワヤ(洞窟)は信仰の対象、異常な体験の場とされてきた。例えば、天照大神が隠れた洞窟は天岩戸であったし、立石寺(山形県)には慈覚大師の入定窟がある、等々。
菅野成寛氏は、骨寺村が中尊寺経蔵別当領となった背景に、この地に古くから信仰を集めてきた洞窟が所在していた、その信仰的価値を生かして、奥州藤原氏がその洞窟に中尊寺と毛越寺の鎮守神を勧請(山王窟と蔵王窟)したこと、即ち、この骨寺村の地と平泉の地が極めて強く結びついていたことによるのではないかと述べている(「陸奥国骨寺村絵図の宗教史」『季刊東北学 第21号』)。
この事情は、江刺郡にもあてはまるのではないか。信仰を集めていた洞窟が存在した場所に仏教が進出してきたのではないか。
そして、イワタニドウの地名の起源となった窟洞は、人首川の重染寺渓谷の地ではなかろうか。太平洋戦争末期に崩され道路が建設されるまで、ここは人首川に張り出した岩の崖、岩庇の状態であったという。
さらに、信仰を集めた巨大な窟洞(イワヤドウ)のあった正に同じ場所に、岩谷堂城など支配の拠点が設置されることになったのではないか、と考えている。

旧江刺郡は「仏教の聖地」
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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