館長室から

#6 長月 文化の「受容」と「変容」

2014.9.10

今から半世紀以上も昔、小生にも卒業論文の作製に血眼になる時期があった。
当時4人いた4年生に、恩師の伊東信雄先生から卒論のテーマが与えられた。それは、昭和40年に研究室が調査した宮城県栗原郡一迫町の山王囲(さんのうかこい)遺跡(現栗原市、国史跡)から出土した膨大な土器群の整理であった。
この調査は、中学校のプール建設に先立って実施された所謂「緊急発掘調査」であったが、その内容の貴重さから工事計画が変更、遺跡が保存されることになり、後に国の史跡に指定され、学術調査が行われるに至るのである。
内容の貴重さとは、この遺跡は縄文時代晩期の後半より弥生時代の初期まで営まれ、それぞれの時期の分厚い文化層が存在。そして、縄文時代の最後の文化層の上から弥生時代の最初の文化層までには無遺物の火山灰層が堆積していた。即ち、縄文時代から弥生時代に移行するに当たっての社会・文化の変化、とりわけ土器群の変化を、一ヶ所で跡付けることができる、という稀有な遺跡であった。
4人の4年生のそれぞれに、大洞C2式(おおほらシーにしき)層、大洞A式(おおほらエーしき)層、大洞A´式(おおほらエーダッシュしき)層(これを小生が担当)初期弥生式層(のちに山王Ⅲ式層と命名される)の土器群の整理が課せられた。大洞(おおほら)とは、言うまでもなく、縄文晩期土器群の標識遺跡の大船渡市大洞貝塚(おおほらかいづか)(国史跡)である。
整理に着手するに当たって、我々4年生は討論し、これらの土器群を「器形の組み合わせ」「その器形の比率」を明らかにする、即ち「土器組成論(どきそせいろん)」的観点で整理することを申し合わせた。これは、当時『岩波講座日本歴史 第一巻』に掲載された坪井清足(つぼいきよたり)氏の関西の弥生式土器の組成論に関する論文に触発されたもので、東北地方でも縄文から弥生にかけての土器組成の変遷を明らかにしよう、という大胆な目論見であった。
4人4年生の大奮闘、しかも1人が盲腸炎になってしまうアクシデントがあり、彼の作業をフォローするという緊急事態もあったが、何とか目標を達成できたと自負している。あの年の研究室の卒論発表会は極めて刺激的な雰囲気であったと記憶している。
小生も、新しい文化を受けいれることによって、それまでの土器群の在り方に様々な変化が生じることを実感し、それ以降、自分の研究の根幹に文化の「受容と変容」という観点を据えて、様々な時代の事象を考えるようにしている。
「平泉の文化遺産」についても、奥州藤原氏は都の文化をどのように受け入れ、それをどのように我が物としたか、という目で見ている。多くの場合、奥州藤原氏が都からの文物に独自性を加味することが、よく見えてくるのである。

文化の「受容」と「変容」
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺区)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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