館長室から

#11 如月 仙台藩の「窟(いわや)」信仰

2015.2.15

最近、「窟」信仰に興味があり、近世の仙台藩の様子を調べてみた。
「奥羽観蹟聞老志(おううかんせきもんろうし)」には柴田郡の八幡窟、名取郡洞窟堂址、磐井郡達谷窟など、6ヶ所が記載されている。
『封内風土記(ほうないふどき)』には、上に加えて宮城郡洞雲寺、同じく青麻神社の三光窩、名取郡の宝窟など7ヶ所が記載されている。
もっとも詳しいのが各村の『風土記御用書出(ふどきごようかきだし)』である。上に加えて、さらに次のような窟・洞・人穴の記述が見られる。刈田郡の人喰沢、伊具郡の山王窟屋、黒川郡の窟薬師堂、加美郡薬師堂、志田郡八ツ穴、栗原郡毘沙門堂、江刺郡黒石寺、同じく横瀬村の愛宕山の洞窟の毘沙門などが記載されている。
代表的例―達谷村の達谷窟(たつこくのいわや)(田谷窟)坂上田村麻呂や藤原利仁などの将軍が東夷征伐の折、惡路王並びに赤頭らの賊が砦を構えた窟。田村麻呂はこの窟の前に寺院を建立し、鞍馬寺を模して多聞天(毘沙門天)像を安置し、西光寺と名付け、水田を寄進した云々。先行して存在した窟に仏教・寺院が習合したこと。
これらは二つに大別できる。
一つは仏教的な霊場としての窟である。窟に安置されているのは観音、不動、薬師、毘沙門で、岩穴が堂そのものになったり、岩穴とは別に堂が建てられているものがある。
又、修行のための座禅の場所でもあった。磐井郡本寺の山王窟と同名の窟が伊具郡に存在した。
他の一つは、鬼形の者、夷賊とされた者、蝦夷といった無法者といった存在の住居としての窟のイメージである。勿論史実とは言い難いが、田村麻呂や頼義・義家らによる「蝦夷征伐(東夷征討)」、安倍氏討伐といった歴史が背景にあって、在地の民蝦夷の抵抗が鬼神化され、その住居に似つかわしいとされたのである。
窟伝承は、討伐する側や、戦乱から逃れた住民の側に引きつけられて語られている場合もあるが、それも蝦夷や安倍氏との戦いに関連してのことであった。
いずれにしても「窟」が信仰の対象になったことは間違いなかろう。
この見通しを、岩谷堂を中心とする旧江刺郡に、平安仏教の痕跡が濃密に分布する理由・背景として適用できないかと考えている。

如月 仙台藩の「窟(いわや)」信仰
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺区)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

過去のコラム一覧はこちら>>ツキイチコラムバックナンバー