館長室から

#15 水無月 考古学から「平泉文化」を考える

2015.6.1

◆平泉は確かに「都市」であった!
「平泉の文化遺産」の世界文化遺産への追加登録のためには、それらの「都市論」に立った理論化が必要である。以下、筆者の考えを数回にわけて述べてみる。

 

◆いわゆる「寺塔已下注文(じとういかちゅうもん)」
これは、文治五年(1189)九月十七日、源忠已講(げんちゅういこう)・心蓮大法師(しんれんだいほうし)など中尊寺・毛越寺僧侶の代表が、源頼朝の求めに応じて提出した「清衡已下三代造立(きよひらいかさんだいぞうりゅう)の堂舎(どうしゃ)の事」についての報告書である。奥州藤原氏滅亡直後の九月九日、頼朝は比企朝宗(ひきともむね)を平泉へ派遣し、平泉の緒寺院については従来通り安堵(あんど)すること、それ故、「仏閣の員数」を詳しく注進(ちゅうしん)すべきことを命じた。それを受けて作成されたのがこの注文である。
注文は八条からなる。即ち、①関山中尊寺の事、②毛越寺の事、③無量光院の事、④鎮守(ちんじゅ)の事、⑤年中恒例法会(ほうえ)の事、⑥両寺一年中の問答講(もんどうこう)の事、⑦舘(たち)の事、⑧高屋(たかや)の事である。
これらの諸施設などの配置を平面図にしただけでもおのずから「平泉の町並」が見えてくる記述であり、極めて貴重。
とりわけ平泉の都市像を考える上で重要なのは、秀衡一族の居館・屋敷の配置を記した⑦、町並を記した⑧、都市平泉の鎮守を記した④の記述である。

 

◆町は神が守る・城壁はない!―④「一 鎮守の事 中央惣社(そうじゃ)、東方日吉(ひえ)・白山(はくさん)両社、南方祇園(ぎおん)社・王子(おうじ)諸車、西方北野天神(きたのてんじん)・金峯山(きんぷせん)、北方今熊野(いまぐまの)・稲荷社などの社なり。悉く以て本社の儀を模す」

 

◆複数の建物を使い分け!―⑦「一 舘(たち)の事金色堂の正方(せいほう)、無量光院の北に並べて宿館(しゅくかん)を構う、平泉舘(ひらいずみのたち)と号す、西木戸(にしきど)に嫡子国衡の家あり、同四男隆衡の宅(たく)これに相並ぶ、三男忠衡の家は泉屋(いずみや)の東にあり、無量光院の東門に一郭を構う、伽羅之御所(きゃらのごしょ)と号す、秀衡常の居所なり、泰衡これを相つぎ居所となす」

 

◆平泉の南の玄関口に高床倉庫群(たかゆかそうこぐん)!―⑧「一 高屋(たかや)の事 観自在王院南大門の南北の路、東西において数十町に及び倉町(くらまち)を造り並べ、また数十宇(う)の高屋を建つ、同院の西南の南北に数十宇の車宿(くるまやどり)あり」
 これらの施設は発掘調査でその存在が確認されたものが多い。『吾妻鏡』の記述は信用できるものが多い(続)

水無月 考古学から平泉文化を考える
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺区)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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