館長室から

#18 長月 考古学から「平泉文化」を考える―平泉は確かに「都市」であった②―

2015.9.1

◆「平泉」は拠点地区と周辺地区で構成される複合型・分散型「都市」で、その周辺に城壁や堀を持たない「開放型都市」であった!

 

▲平泉拠点地区
奥州藤原氏にとって、その統治や信仰のために重要な役割を果たす政庁・寺院などの主要施設が設置された最も枢要な地域。北を衣川、東を北上川、南を太田川、西を山地で限られた、現在の平泉町の市街地に一致する地区である。そこには、関山地区、毛越寺地区、無量光院・平泉舘(柳之御所遺跡)地区の3つのまとまりが存在した。
西暦1096年頃、初代清衡は江刺郡豊田舘から平泉へ移転したが、以後100年間、ここには町づくりの槌音が響き続けていた。しかし、町の周辺に城壁や堀などの軍事的防御施設はなく、鎮守のお社によって守られていた。

 

▲平泉周辺地区
最近の発掘調査によって、拠点地区の外側にも奥州藤原氏時代の遺跡が確認され、「都市平泉」の範囲を拡大することが求められている。

 

①下衣川地区(衣川区)―関山北麓の衣川北岸には安倍氏時代の寺院である長者ヶ原廃寺跡や奥州藤原氏時代の遺跡群が存在する。この地区を奥大道が通っていたこと、接待館遺跡に関所関連施設の可能性があること、七日市場など多くの市場地名が存在することから、ここには奥州藤原氏時代の交通・経済機能を果たした場所との想像ができる。
②白鳥舘地区(前沢区)―白鳥遺跡は、北上川の屈曲部内の丘陵地は北上川の舟運を監視した館である。その西の平地部に大型掘立柱建物群、かわらけ焼成窯、金属器加工炉などが確認され、奥州藤原氏時代の川湊(河港)機能を果たしていた可能性が高い。
③長島地区(平泉町)―北上川河東の氾濫原の微高地と山地の裾部に奥州藤原氏を支えたムラの跡が存在。また、新箱石橋の東の袂に鎮座する「お大師様(伝教大師とも)」の石像は12世紀で、「都市平泉」の北東隅を結界するものといわれる。
④祇園地区(平泉町)―太田川以南の祇園社周辺に大型掘立柱建物や祭祀跡などを確認。「都市平泉」の南の玄関口施設と推定される。
⑤達谷地区(平泉町)―毛越寺から達谷窟を経て厳美方面へ行く県道はかつての奥大道の跡といわれ、鎌倉に戻る際に頼朝も立寄っている。奥大道に面し、池のあるところが確認されているこの地は、関寺的な交通関係機能を果たしていた可能性がある。
⑥骨寺地区(一関市本寺)―骨寺村荘園遺跡の地である。中尊寺経蔵別当自在坊蓮光の荘園があり、また、中尊寺と毛越寺の鎮守が勧請された洞窟(山王窟と蔵王窟)が所在するなど信仰上の聖地である。

 

以上のように、世界文化遺産への追加登録を目指している柳之御所遺跡・達谷窟・骨寺荘園遺跡・長者ヶ原廃寺跡・白鳥舘遺跡は、それぞれ「浄土都市平泉」の機能の一部を果たしていたパーツであったのである。

考古学から「平泉文化」を考える―平泉は確かに「都市」であった
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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