館長室から

#20 霜月 考古学から「平泉文化」を考える-平泉は確かに「都市」であった④-

2015.11.18

◆絵画資料が物語る「都市平泉」

柳之御所遺跡(政庁平泉舘)から折敷の天板に絵画を描いた資料が出土しており、平泉が都市であったことを物語っている。

(1)秋草風の植物図
柳之御所遺跡の堀外部地区(高館山の東南麓)出土で、ススキその他の植物が描かれる。

 

(2)鹿の後肢(うしろあし)図
(1)と同地区出土、明らかに鹿と思われる動物の後肢が描かれている。

 

(3)直立したカエル図
堀内部地区より出土、立ち上がり、右手に扇、左手にススキの弓を持ったカエルの図である。

 

以上の絵はいずれも京都市高山寺蔵の国宝『鳥獣人物戯画(ちょうじゅうじんぶつぎが)』に酷似している。ただし、扇と弓を持っているのは『鳥獣戯画』ではカエルではなくウサギである。

 

◆描いたのは誰?

これらの絵を描いた人物について、今は亡き大矢邦宣氏は次のように推定した。「柳之御所遺跡出土のこれらの絵は『鳥獣戯画』を見たことのある人物が平泉に来ており、何らかの機会に記憶とともに描いたものではないか?『鳥獣戯画』は後白河法皇(ごしらかわほうおう)が描かせ愛玩していたもので、平泉のカエルの絵は、それを知っていた法皇の近臣や公卿、あるいは平家の関係者が平泉へ下向し、自分の見聞を披露しようと平泉で描いた際にウサギとカエルを取り違えたのではないか」
東北大学の泉武夫氏は「『鳥獣戯画』は秘蔵されており、それを実見できた人は限られていたはずである。一方、当時の祭礼の行列には風流傘(ふりゅうがさ)が参加しておりその傘の上部の傘鉾(かさほこ)の部分に、カエル・サル・ウサギ・シカ・ウマ(いずれも神の使者とされる)が戯れ遊ぶ光景が人形により立体的に表現されていた。これが後世の山車の原型である。祭礼に参加していた人であれば傘鉾は誰でも見ることができた。京都の賀茂祭(かもまつり)などの祭礼の傘鉾の像を見たことのある人が平泉に下向して描いたのではないか」と推定した。

 

◆神殿造り風の建物図

これも堀内部地区出土、いわゆる寝殿造の対屋風の建物を右上方からみた鳥瞰図風に描いている。
北海道工業大学の川本重雄氏は、平泉に実在した建物のスケッチと推定したが、発掘調査では神殿造風の建物跡は確認されていない。
一方、京都大学の上原真人氏は、この図に酷似する建物の図が宇治平等院鳳凰堂の壁に描かれており、それを見た人物が平泉へ下向し、己の学識を披露するなどのことで描いたものではないかと推定した。いうまでもなく、三代秀衡が建立した無量光院は宇治平等院鳳凰堂を拡大して模したものであった。

 

以上の絵画資料は、都市平泉の町づくりのために、いかに多くの人々が京都から平泉へ下向していたかを物語るものであり、それらは即ち、平泉が都市であったことを雄弁に物語る資料である。

考古学から「平泉文化」を考える―平泉は確かに「都市」であった
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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