館長室から

#21 師走 考古学から「平泉文化」を考える-平泉は確かに「都市」であった⑤-

2015.12.26

◆様々な「都市の正月遊び」

平泉町内の遺跡群より、奥州藤原氏時代の様々な正月遊びの道具が出土している。
それらは当時の京都のものと同じであり、正月遊びの面でも平泉は京都的、即ち「都市的」であったことを物語っている。
なお、それらは単なる「遊び」ではなく、「除災招福」など、当時の人々の身近で切なる願いが込められた「お呪(まじな)い」的な行為でもあったことが判明している。

 

▲毬打(ぎっちょう、毬杖とも記す)

子供たちが毬(まり、ボール)を長い柄の槌(杖、スティック)で打ち合う、グランド・ホッケー的な遊び。柳之御所遺跡から出土した毬は木製で、角を落として直径4セン前後の玉(多面体)に仕上げてある。
中世の書物に、毬は鬼の頭とみなされ、正月にそれを打ちあって災厄を除こうとした、と出ている。又、『義経記』にも、義経が平清盛(たいらのきよもり)と重盛(しげもり)の首に見立てた毬を打つ場面がある。

 

▲竹トンボ・木トンボ(竹蜻蛉・木蜻蛉)
これも京都の正月遊びである。竹製や木製(柳之御所遺跡はこれ)の羽の中央に小さな穴があけられたもので、現在の竹トンボそのもの。
夏から秋にかけて蚊に食われ、かぶれ、膿を持つに至る子供たちの難儀を防ぐために、年頭の正月に蚊を食ってくれるトンボを高々と舞い上がらせ、蚊を怖れさせるという予防的行為である。

 

▲コマ(独楽)

これは子供たち、特に男の子の正月遊び。柳之御所遺跡から、ロクロ挽きで円錐形に仕上げた木製品。即ちコマが出土。コマは現在では「独楽」と書くが、中世には「胡魔」と書いた。胡とは、かつてのペルシャなど中国人からみた西方のことで、遊牧民の侵入などの災難、即ち「魔」はこの方角からやってきた。そのような「胡魔」を紐で叩いて懲らしめる遊びであった。

 

▲羽根突き(はねつき)の羽子板

お正月の女の子の遊びである。柳之御所遺跡より羽子板が出土。これまで国内では草戸千軒町(くさどせんげんちょう)遺跡(広島県)の室町時代の羽子板が最古の例とされてきたが、それより遙かに古い。
トンボの羽に似た葉を持つ無患子(むくろじ)の種を用いた羽子(はね)をトンボとみなして高く打ち上げ、先の竹トンボと同様に、子供に害をなす蚊をあらかじめ脅かす意味のある遊びである。
又、中世には羽子と羽子板を「こきのこ」「こきいた」と言った。即ち「胡鬼子」「胡鬼板」であり、先と同様に、西方から襲ってくる災厄・魔物を打ち払うという願いを込めた遊びでもあった。

 

京都における正月の遊びと同様の遊戯具が平泉から出土していることは、平泉が都市であったことを雄弁に物語っている。

考古学から「平泉文化」を考える―平泉は確かに「都市」であった
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺区)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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