館長室から

#22 睦月 考古学から「平泉文化」を考える-平泉は確かに「都市」であった⑥-

2016.1.15

◆外方よりの物資で溢れた平泉―Ⅰ

奥州平泉の首都ともいうべき「都市平泉」は、京都など外方からもたらされた様々な物資で溢れていた。その背景には人間の動きが伴っていたのは当然である。豊かな物流の目的地平泉は、京都を思わせるに十分である。
その豊かさは文献史料に記されており、発掘調査の出土品はその具体的な物証になる。
まず文献史料を見よう。物資だけでなく寺院・祭礼などでも京都風を平泉に移している。

 

▲『吾妻鏡』文治五年(1189)八月廿日条、

奥州藤原氏の滅亡により焼野原となった平泉にたった一軒焼け残った倉庫に存在した沈紫檀(じんしたん)以下の唐木(からき)の厨子に納められていた財宝の数々は「牛王(ごおう)、犀の角、象牙の笛、水牛の角、紺瑠璃(こんるり)の笏(しゃく)、金(こがね)の沓(くつ)、玉幡(ぎょくばん)、玉で飾った金の華鬘(けまん)、蜀江錦(しょっこうにしき)の直垂(ひたたれ)、縫い目の無い帷子(かたびら)、金造りの鶴、銀(しろがね)造りの猫、瑠璃の燈炉(とうろ)、金器(こがねのうつわ)に盛った南庭百(なんていはく)(良質の銀?)、その他錦繍綾羅(きんしゅうりょうら)など多数」であった。頼朝はこれらの一部を重臣の葛西清重(かさいきよしげ)と小栗重成(おぐりしげなり)に下賜している。

 

▲『吾妻鏡』文治五年九月十七日条のいわゆる「寺塔己下注文」

この注文の中尊寺・毛越寺の項には多くの流入品が記されている。
例えば、二代基衡建立の毛越寺の本尊の仏像は仏師の定朝(じょうちょう)、或は運慶(うんけい)作とあり、都より下向した仏像である。また、毛越寺の額は九条関白(くじょうかんぱく)藤原忠通(ふじわらのただみち)(法性寺流(ほっしょうじりゅう)の開祖)の直筆、堂内を飾る色紙形(しきしがた)は参議の藤原敎長(ふじわらののりなが)の直筆である。いすれも当代一流の能書家である。
三代秀衡建立の無量光院は京都の宇治平等院鳳凰堂を拡大して模したものとあり、さらに、年中恒例法会(ねんちゅうこうれいほうえ)や問答講(もんどうこう)も京都におけると同様に執行されたとも記されている。

 

▲なお、毛越寺本尊の出来があまりに素晴らしいので、鳥羽法王(とばほうおう)が洛外への持ち出しを禁じたので基衡は悩み、忠通に仲介を頼んで、何とか毛越寺に安置することができた、ともある。
これら物資の平泉流入の背景に奥州藤原氏の豊かな経済力があったが、都人がそれを快く思わなかったらしく、次のような奥州藤原氏を蔑視した説話がある。

 

○鎌倉初期の説話集『古事談(こじだん)』の巻第二 二四

菊名高名(きくなこうみょう)「(法性寺殿(ほっしょうじどの)忠通が額を書いたが)、陸奥の基衡が堂の額なりけりと聞かしめ給ひて、争(いか)でかさ(燃)る事有らむとて、御厩(みまや)の舎人(とねり)菊名を使にて召返されけり(取り返した)云々」

○1170年頃成立した歴史物語『今鏡(いまかがみ)』巻五ふぢなみの中第五 みかさの松「(上と同様に忠通が額を書いた後に)をくのえびすのもとひらとかいふがてらなりけりときかせ給ひて(奥夷基衡云寺聞)。みちのをくへとりかへしにつかはしたりけるを(陸奥取返遣)。かへしたてまつらじとしけれども(返奉)。め(基衡の妻)の心かしこくやありけん(妻賢)。たてまつらざらんはしれごとなりといさめければ(奉痴事諌)。かへしたまつりけるに云々て(返奉)」

考古学から「平泉文化」を考える―平泉は確かに「都市」であった
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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