館長室から

#23 如月 考古学から「平泉文化」を考えるー平泉は確かに「都市」であった⑦―

2016.2.15

◆外方よりの物資で溢れた平泉―Ⅱ 熱帯産の夜行貝が平泉に!

金色堂内陣の捲柱(まきはしら)、蛙股(かえるまた)、高欄その他の部分に、宝相華唐草文(ほうそうげからくさもん)が螺鈿細工(らでんざいく)で表現され、その素材に夜行貝が大量に用いられている。

 

▲夜光貝とはリュウテンサザエ科の巻貝で、サザエの近縁種である。殻径・殻高ともに20㌢前後もある大型の貝である。表面は暗緑色、数条の淡い栗色帯があり、内面に真珠光沢がある。熱帯海域に産し、肉は食用とし、殻を古来、螺鈿に用い、真珠層を磨き出して杯などの細工物とする。夜久貝ともいう。

 

▲この夜光貝が平泉へ流入したことについて斉藤利男(さいとうとしお)氏は次のように述べている。
「中国産陶磁器を平泉へもたらしたルートには大宰府・博多ルートがあったが、このルートは九州西岸を南下し、薩摩西岸の貿易港を経由して、「鬼界ヶ島(きかいがしま)」と総称された南島(トカラ列島)・奄美群島は通じていた。
奄美群島は螺鈿細工(らでんざいく)に欠かせない夜光貝の産地であり、奄美大島に隣接する喜)島(きかいじま)には九州の勢力が早くから移住し、大規模な集落と交易の拠点を形成していた。
 それが城久遺跡(ぐすくいせき)である。中尊寺金色堂を飾る螺鈿装飾の夜光貝はこの南島ルートを通じて入手されたものであり、これも、都の京都を経由せず、博多から直接平泉へ運ばれた可能性がある。
既述の城久遺跡群は鹿児島県喜界島に発見された8~12世紀にわたる大規模な集落遺跡である。喜界島は律令制(りつりょうせい)のもとでは日本国外であったが、古代国家の官衙に匹敵する政庁・倉庫・広場趾などが確認され、又、大宰府・南九州系の土器や中国・高麗産の陶磁器など島外産の土器・陶磁器が大量に出土している。
以上のことから、この遺跡は、11世紀以前は九州勢力の支配の拠点であり、11世紀以降は広域的な交易活動のセンター的機能を果たしていたと推定されている。
このルートの、遥か北方の果てに奥州藤原氏の「首都平泉」があったのである。当時のダイナミックな人々の行動を思わずにはいられない。
なお、中世日本の北限とされた外ヶ浜に臨む青森市新田Ⅰ(あおもりしにったイチ)遺跡は、奥大道の終点に位置する港湾施設と推定されている。受け入れ態勢も整備されていたのである。

考古学から「平泉文化」を考える―平泉は確かに「都市」であった
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺区)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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