館長室から

#24 弥生 考古学から「平泉文化」を考える―平泉は確かに「都市であった」⑧―

2016.3.1

◆外方よりの物資で溢れた平泉―Ⅲ 出土遺物が雄弁に物語る事実!

平泉遺跡群の発掘調査による出土遺物も、平泉への豊富な物資の流入を雄弁に物語っている。以下に代表的な例をあげる。

 

▲中国産陶磁器

初代清衡の時代から、白磁・青磁・青白磁(せいはくじ)などの磁器類、緑釉褐彩(りょくゆうかっさい)などの陶器類を輸入していた。
奥州藤原氏は中でも白磁を好み、とりわけ、四耳壺(しじこ)・水注(すいちゅう)・梅瓶(めいびん)の3つを好んだ。この嗜好は鎌倉幕府御家人のそれに共通するという。
中国の寧波(にんぼう)(明州(めいしゅう)ともいう)から船出し、博多へ到着、そして博多から太平洋側の沿岸航路を辿って平泉へ運ぶルートが存在していたのであろう。

 

▲国産陶器

当時の日本では磁器は生産しておらず、陶器のみであった。当時の主要産地は3か所あった。

(1)愛知県渥美半島周辺―現在の田原(たはら)市周辺で渥美焼の陶器を生産。平泉には文様のある壺や甕などの優品が12世紀初期からもたらされていて、奥州藤原氏は一大スポンサーであった。

(2)愛知県知多半島周辺―猿投(さなげ)焼きや常滑(とこなめ)焼きが生産された。平泉へは常滑焼きの三筋文壺(さんきんもんこ)や甕・鉢が大量にもたらされた。

(3)石川県能登半島先端―現在の珠洲(すず)市は中世には珠洲焼きの一大生産地であった。鼠色の焼き上がりと櫛描(くしか)き波状文(はじょうもん)が特徴であり、容器のほかに仏像を表現した塼仏(せんぶつ)も生産され、江刺区豊田舘趾出土の大日如来の塼仏も珠洲産である。

 

▲地元産陶器

宮城県石巻市の水沼窯跡(みずぬまかまあと)と平泉町花立(はなたて)窯跡から渥美焼き類似の陶器が出土、また秋田県二ツ井町(現能代市)のエヒバチ長根(ながね)窯跡からは珠洲焼きそっくりの陶器が出土しており、奥州藤原氏がそれぞれの産地から職人を陸奥に招いて、地元生産させていたことがわかる。

 

▲奥州藤原氏は、これらの陶磁器類を、日常生活での食器類、政治的場面の一部をなす宴会の容器、経塚への経巻を納める際の埋經容器(まいきょうようき)、そして様々な呪(まじな)いの際の祭器として、広範囲に、惜しげもなく使用していた。恐らく、高価な陶磁器を所有し、使用することは、みずからの存在を高める威信財(いしんざい)としての意味が強かったのであろう。
八重樫忠郎(やえがしただお)氏によると、平泉遺跡群から出土する陶磁器の約80%を渥美焼きと常滑焼きで占めており、残り20%を中国産陶磁器と珠洲焼きほかがしめているとのことである。
奥州藤原氏時代の陶磁器を出土する遺跡は岩手県内に150ヶ所以上、北海道・東北地方に400ヶ所前後確認されている。これらは当時の支配体制、交通路、交易活動などを研究する貴重な手がかりである。
このほかに滑石製の石鍋や温石なども、九州産の素材の物が存在する事実も興味深い。

考古学から「平泉文化」を考える―平泉は確かに「都市」であった
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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