館長室から

#25 卯月 考古学から「平泉文化」を考える―平泉は確かに「都市であった」⑨―

2016.4.4

◇平泉に存在した「都市計画」◇

 

「都市平泉」の開始に係る『吾妻鏡』の文治五年(1189)九月廿三日の条の記述がある。
 即ち、「(上略)清衡、去る康保(こうほう)年中に、江刺郡豊田舘(とよたのたち)を岩(磐)井平泉(ひらいずみ)へ移し宿舘となす。三十三年を経(へ)て卒去(そっきょ)す(下略)」というものである。
 文中の康保は964~968年の年号であるので『吾妻鏡』の誤写で、正しくは嘉保(かほう)(1094~96)か、或は康和(こうわ)(1099~1104)とされている。後者が妥当か?

 

◆移転前の平泉

清衡が移転する以前の平泉の地の様子は未詳である。安倍氏や清原氏の根拠地の衣川に隣接し、また、北上川や奥大道(おくだいどう)などの交通路が通っていたのは確実なので、何らかの施設が存在していたのであろう。柳之御所遺跡堀内部地区の西端に確認された最も古い堀がその痕跡か?
「平泉」という地名の由来も未詳である。これまでは、町内に存在する「泉屋」などの地名から「湧泉に関連する」と推定されてきたが、近年、中国の文化的副都というべき「平泉(へいせん)」に関連しないか、との説も出されている。
いずれにせよ、初代清衡から平泉の町造りが開始され、以後、三代に至るまで継続されたのであろう。羽柴直人(はしばなおと)氏の研究によって、その経過が明らかになりつつある。

 

◆三代の町造り

※初代清衡(12世紀前半)―統世の前半には中尊寺と平泉舘(柳之御所遺跡)を結ぶ道路がある程度完成、後半には金色堂、花館廃寺(はなだてはいじ)、花立Ⅱ(はなたてに)、伽羅乃御所(きゃらのごしょ)遺跡の一部が加わる程度。
※二代基衡(12世紀前半~後半)―治世の前半に毛越寺の建設とその周辺の道路設備(毛越寺・観自在王院(みじざいおういん)の南辺を東西に走る大路と、それに直行する南北道路)、それに沿う方形の建物区画が設定される。後半には東西大路と平泉舘を結ぶ南北道路が出来、平泉舘の堀は機能しなくなる。平泉の鎮守社設置など、平泉が都市らしくなる時期。
※三代秀衡(12世紀後半~末)―前半には平泉舘内に大型建物群を建設、後半には無量光院(むりょうこういん)を建設。平泉舘内部が大改修され、伽羅之御所も完成される等、「都市平泉」の全盛期。

 

◆道路の幅と間隔に規格がある

平泉遺跡群内に発見される道路は側溝を伴う本格的なものである。前記の羽柴氏は多くの道路跡を精査し、道路の幅と間隔を藤島亥治郎(ふじしまがいじろう)氏が算出した平泉文化期の基準尺=0.3058㍍で割ると、道路幅では100尺、33尺、50尺、66.6尺の数値が、道路間隔では400尺、800尺の数値が得られた。これらのことは、道路幅と間隔、建物の間尺に規格性が存在した、即ち「都市計画」が存在したことを物語る。町造りにも多くの人々が京都から呼び寄せられたのであろう。

考古学から「平泉文化」を考える―平泉は確かに「都市」であった
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺区)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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