館長室から

#31 神無月 考古学から「平泉文化」を考える
奥州藤原氏の地域支配④―発掘調査が示唆する地域支配の様子―

2016.10.1

史料には出てこない奥州藤原氏の地域支配の様子を解明する手がかりを居館跡の発掘調査が発見した。

◆比爪館遺跡(紫波郡紫波町南日詰)

奥州藤原氏の一族の比(樋)爪氏の居館で、産金地帯である紫波郡を支配するために設置されたという。『吾妻鏡』によれば、文治五年(1189)九月四日、源頼朝が紫波郡に入った時、樋爪太郎俊衡はこの館を焼いて北方へ逃げたが、同月十五日、俊衡とその弟五郎季衡などの一族は、厨川(盛岡市)の頼朝陣営に投降した。翌十六日頼朝は俊衡を許し、本領を安堵した。これは俊衡が法華経を熱く信仰し、また、六十歳と高齢であったことによるという。俊衡はこの地で命脈を保ち、泰衡の子秀安を扶養したと伝える。

俊衡については、清衡の子の清綱の長子説、清衡の四男説、秀衡の弟説などがある。

この遺跡は紫波町立赤石小学校周辺と、その何隣の五郎沼を含む広大な範囲を占める。これまでの発掘調査で、奥州藤原氏時代の堀・土塁・掘立柱建物などの遺構と、12・13世紀の「かわらけ」・陶磁器・仏器ほかの遺物が大量に出土し、比爪館との伝承を裏付けている。

大正時代の浚渫作業で、五郎沼の底から「かわらけ」が出土したといわれ、この沼は12世紀の当初から舘の一部をなしたことは確実である。江戸時代の絵図によると、池は現在よりも西方に広がり、かつ、中島が存在した。従って、この沼は平泉舘(柳之御所遺跡)内に所在する園池と共通する可能性が強い。

また、この中島にはかつて観音堂があったこと、さらに、沼の北岸には大荘厳寺という寺が存在した由(江戸時代に盛岡に移る)である。

即ち、政治的支配の拠点である比爪館に宗教的施設が併設されていた姿が見えてくる。これは「首都平泉」と同じ構造であり、奥州藤原氏は、このような「ミニ平泉」を各地に設けて、地方支配を行っていたと思われる。

 

◆豊田舘跡(奥州市江刺岩谷堂餅田)

江戸時代から藤原経清・清衡父子の居館との伝承があり、さらに、地内の経塚より11世紀末期から12世紀初期の中国福建省産の白磁四耳壺が出土している。遺構類は未確認であるが、これらのことから、伝承は事実で、この舘は江刺郡及び周辺地域支配のための拠点であったと見なして大過なかろう。

小規模な遺構確認調査の際に、溝跡より大日如来坐像を表現した塼(煉瓦タイル的なもの)の破片が出土した。塼仏と認められるこの破片は、平成26年の調査によって石川県能登半島先端の珠洲産であること、同じ型(同范)で造られた塼仏が兵庫県に存在することが判明した。塼仏の出土は、豊田舘に寺院、或は堂宇が併設されていたこと、即ち、ここも「ミニ平泉」であったことを示唆する。比爪館に共通する。

考古学から「平泉文化」を考える奥州藤原氏の地域支配
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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