館長室から

#33 師走 考古学から「平泉文化」を考える
奥州藤原氏の地域支配

2016.12.1

陣が峯城跡

奥州藤原氏時代の会津盆地(福島県)の支配の拠点と思われるのが会津坂下町に所在する陣が峯城跡である。
会津坂下町は古来、太平洋側と日本海側を結ぶ交通の要衝で、すぐ南側に旧越後街道が走り、その北側で合流した阿賀野川が新潟平野に流入している(以下は『発掘された日本列島2005 新発見考古速報』より)。
城跡は見晴らしのよい標高約195㍍の小さな扇状地状の地形の東端部に立地し、東側は20㍍にも達する段丘崖となって盆地に面している。ここから12世紀の遺構・遺物が発見された。
史料的には、12世紀のこの地方は摂関家藤原忠実の荘園である会津蜷河荘であった。

 

◆「藍津之城」か?

その忠実の孫で関白太政大臣九篠兼実(1149~1207)の日記『玉葉』(1164~1203までの日記)の養和元年(1181)七月一日の部分に、「欲凌磔助元之間、欲引籠藍津之城之処、秀平遣朗従、欲押領云々」と見える。
この文は難解であるが、助元は城助職(長茂)、秀平は藤原秀衡と思われる。助職が攻撃を凌ごうとし欲して藍津之城に引き籠らんと欲したところ、秀衡が郎従を遣わし押領せんと欲す、の意味か?
城助職は木曽義仲との横田河原の戦いで敗れ、会津に逃れたものの、藤原秀衡に攻撃され、ここも撤退している。
横田河原の合戦とは、治承五年(1181)六月、信濃で挙兵した木曽義仲ほかの源氏諸軍勢に対して越後の城助職が攻め込んで起った合戦で義仲方が勝利した。
あるいは、城助職が会津に逃れた先が藍津之城で、そこを藤原秀衡に攻められたものか?藤原勢は藍津之城を占拠し、蜷河荘を押領したものか?
近くにある恵隆寺(会津坂下町)の『恵隆寺縁起』にある「陣が峯城が越後の鳥坂城主城四郎長茂と慧日寺(恵日寺、磐梯町)衆徒頭乗丹房に攻められた」との記述はこの際のことを記したものか。鳥坂城は新潟県胎内市に所在する城氏関連城跡である。

 

◆遺構・遺物

考古学的には、この城跡は平面が五角形で、城内の規模は東西約100㍍、南北約175㍍、幅30~60㍍の二重堀が東側を除く三方を廻る。
城内の中央部に大型掘立柱建物があり、その付近から中国製白磁四耳壺・水柱、高麗青磁(朝鮮)や青銅製錘、和鏡などが大量に出土。その東側から白磁皿、炭化椀、包飯(怖飯を握ったもの)、炭化米・豆が出土した。多くの遺物が火力を受けており、この建物が戦いで焼失した可能性を示す。
この居館は、摂関家領蜷河荘関連か、あるいは奥州藤原氏関連か、の双方の可能性があるが、やはり、秀衡の治世に、遥か離れた会津地方にも地域支配の拠点を設けたと考えたい。

考古学から「平泉文化」を考える奥州藤原氏の地域支配
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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