館長室から

#34 睦月 考古学から「平泉文化」を考える
奥州藤原氏の地域支配―県内の基礎的データは整っているか―

2017.1.1

◆奥州藤原氏時代の研究史料・手がかり

まず①古文書・歴史書などの文字史料(文献史料)がある。次に②信仰関連の寺社建築、仏像・神像・仏器・祭器などがある。そして③考古学的な遺跡・遺構・遺物があり、文字史料には記されていない、生活のあらゆる領域にわたる具体的証拠を提供してくれる。
①②は早くから平泉研究の主流をなしてきたが、今後も同様であろう。③は近年、大量の情報を提供してきており、今後も膨大なデータをもたらしてくれるであろう。
その中でも、もっとも魅力的な資料と思われるのが焼き物(陶磁器類)である。胆江地方の方言で、ガラクタやつまらないものを「瀬戸カケ(瀬戸物の破片)」「カラケ(土器の破片)」というが、その焼き物(陶磁器)の破片が極めて有効な資料となるのである。これらを手がかりとする様々な研究が可能になるが、そのためには条件整備が必要である。

 

◆岩手県内の奥州藤原氏時代の遺跡分布

この時代の陶磁器を出す遺跡は、現在150ヶ所前後確認されている。そのうちの50ヶ所前後が西磐井郡平泉町内にあり、さすがに奥州藤原氏の「首都平泉」である。
平泉町以外の100ヶ所は、北は二戸市・旧浄法寺町、南は旧花泉町、東は宮古市・釜石市、西は旧湯田町迄、岩手県全域に分布している。
遺跡の分布密度を見ると、盛岡市以南の北上川流域に圧倒的多数が集中している。この地域はかつての「奥六郡」の地である。
「奥六郡」は言うまでもなく安倍氏の根拠地であったし、安倍氏を滅ぼして奥羽の支配者となった清原氏の陸奥側の根拠地でもあった(恐らく瀬原地区と推定)。そして、安倍氏と清原氏の双方と縁の深い奥州藤原氏も。その父祖の地というべき「奥六郡」を最も基礎的な勢力範囲、即ち本貫の地としていたのであろう。

 

◆太平洋側、日本海側を結ぶ地域にも!

興味深いのは、平泉が所在する北上川中流域と、東は太平洋岸、西は日本海岸を結ぶ中間地点にも遺跡が所在する事実である。
例えば、内陸部と釜石方面を結ぶ猿ヶ石川沿いの旧東和町の丹内山神社に12世紀の経塚が所在し、日本海側の出羽・横手方面と結ぶ和賀川沿いの旧湯田町峠山牧場遺跡から「かわらけ」が出土している。県北部では、出羽・秋田方面と結ぶ安比川沿いの旧浄法寺町に12世紀の「土踏まずの丘経塚」が存在する。あたかも、12世紀にも「肋骨路線的なルート」が存在したかのようである。

 

◆より一層の遺跡の確認を!

ところで、奥州藤原氏時代の遺跡の所在状況を、各地で同じ精度で把握しているかと問えば、残念ながら否である。地域によるバラツキが存在している。
例えば、産金地帯で、奥州藤原氏開鑿との伝承を伴う金山跡の多い旧東磐井郡・気仙郡に遺跡が少ないことになっている。南に隣接する宮城県には遺跡が多数確認されていることは、この両郡に未確認の遺跡が眠っていることを示唆する。
同様に、八戸市と宮古市までの本県沿岸北部にも遺跡が少なく、この地域にも未発見の遺跡群があるのであろう。
本県全体の遺跡が正確に把握されたならば、奥州藤原氏時代の歴史がより正確に見えてこよう。

考古学から「平泉文化」を考える―平泉は確かに「都市」であった
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺区)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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