館長室から

#34 如月 考古学から「平泉文化」を考える
奥州藤原氏の地域支配―東北・北海道のデータは整っているか?―

2017.2.5

東北・北海道に、現在のところ12世紀の遺跡が400ヶ所前後確認されている。すべての地域において、遺跡が同じ精度で把握されているとはいえないが、現状でも様々な可能性、新しい研究テーマが見えてくる。

 

◆様々な可能性、新しい研究テーマ

△奥大道は確かに存在した!

福島県南部の白河市(白河の関)に始まり、宮城県、岩手県、秋田県東北隅をかすめて津軽平野・陸奥湾(外ヶ浜、青森県)に至る遺跡の点列がその証拠である。また、大館市(秋田県)附近から八戸市方面への遺跡列は、奥大道に支線が存在したことを示唆する。現在の東北自動車道青森線と八戸線に相当する街道が12世紀に存在したことは確実であろう。
『吾妻鏡』に、初代清衡さんは、奥大道の一町(約109メートル)毎に傘卒塔婆を建て、その表面に金色の阿弥陀像を描かせた(即ち、道路の意地管理を行った)と出ているが、このルート沿いに傘卒塔婆の実物が発見される日も近いのではなかろうか?

 

△大河は交通路・交易路であった!

日本海側では岩木川(青森県)、米代川・雄物川(秋田県)、最上川(山形県)、太平洋側では阿武隈川(福島・宮城県)、北上川(岩手県・宮城県)、馬淵川(岩手・青森県)など、各地域を代表する大河に沿って遺跡が分布している。これは、当時、大河は舟運など交通の一大手段・機関であったことを反映したものである。また、大河に沿った陸上ルート(街道)も成立していたであろう。
さらに、柳之御所遺跡(平泉町)や白鳥館遺跡(前沢区)は明らかに北上川の川湊(河港)であったし、大古町遺跡(宮城県伊具郡丸森町)は阿武隈川の川湊であった。大古町には港湾施設となる可能性をもつ遺構も発見されている。これらの他にも多くの川湊が存在したはずである。

 

△大河の河口は海港(海湊)であった!

既述の大河の河口に遺跡が集中している。これは、各河口に湊(港)が成立していたことを示唆する。即ち、現在の酒田(山形県)、秋田・能代(秋田県)、十三湊(青森県)などは、既に奥州藤原氏時代、12世紀から海港機能を果たしていたのであろう。
室町時代末期に成立した日本最古の海洋法規集というべき『廻船式目』に、当時の代表的な10ヶ所の港湾が「三津七湊」と記されている。即ち、三津は安濃津(三重県津市)・博多津(福岡県福岡市)・堺津(大阪府堺市)である。
七湊は三国湊(福井県坂井市)・本吉湊(石川県白山市)・輪島湊(石川県輪島市)・岩瀬湊(富山県富山市)・今町湊(直江津)(新潟県上越市)・土崎湊(秋田湊)(秋田県秋田市)・十三湊(青森県五所川原市)である。中世の海港は、その最初期の12世紀には既に成立していた可能性大である。

 

◆北海道はほぼ空白域!

奥州藤原氏が都へ送った産物の中に、大鷲の羽、水豹(アザラシ)の皮など、本州以北・オホーツク沿岸の特産物が含まれていたことは、奥州藤原氏が蝦夷地(北海道)も支配していたことを示す。ところが、北海道には現在のところ、この時代の遺跡は3ヶ所しか確認されていない。これは明らかに追跡不足の結果であり、今後の遺跡発見に期待したい。

考古学から「平泉文化」を考える―平泉は確かに「都市」であった
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺区)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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