館長室から

#36 弥生 考古学から「平泉文化」を考える
奥州藤原氏の地域支配―東北・北海道の藤原仏―

2017.3.1

◆『吾妻鏡』文治五年(1189)九月廿三日の奥羽支配に関する記述(原漢文)

「(上略)清衡は継父武貞荒河太郎と号す。鎮守府将軍武則の子。卒去後、奥六郡伊澤。和賀。江刺。稗拔。志波。岩井。を傳領し、去る康保年中、江刺郡豊田舘を岩井郡平泉へ移し宿館となす。卅三年を歴て卒去す。両国陸奥・出羽に一万余の村有り。村毎に伽藍を建て、仏性燈油田を寄附する(下略)」

文中の岩井は岩手の誤記、また、康保は964~968年の年号であるので誤記、正しくは嘉保(1095~97)か康和(1099~1104)のいずれかであろう。

この文は、奥州藤原氏の実務官僚と言うべき豊前介清原実俊の説明をもとに記述されており、たかだか99年前の出来事でもあり、その内容は事実であったろう。即ち、初代清衡の治世から、確実に奥羽両国を支配していたのであった。

 

◆日本各地に藤原仏が存在!

奥州藤原氏の伝承を伴う12世紀、平安時代の末期の仏像が全国各地に存在し、奥州藤原氏の影響力を示している(以下は『「平泉」伝承の諸仏』より)。

その中で最も有名な仏像が岐阜県郡上市白鳥町の石徹代大師堂の金銅虚空藏菩薩坐像である。この12世紀の像には、秀衡が奉納、像を守ってきた上村十二人衆は平泉から派遣された秀衡家臣の末裔、との伝承が伴っている。奥州藤原氏の白山信仰に係る奉納であったろう。

太平洋側では、静岡県下田市の稲田寺の12世紀の丈六の阿弥陀如来坐像には、沿岸航路で平泉へ運ばれる途中、何らかの事情でこの地に下ろされ安置された、との伝承が伴っている。

 

◆東北各地に藤原仏が存在!

北は青森県大鰐町から、南は福島県いわき市まで、東は岩手県気仙郡、西は山形県寒河江市まで、即ち奥羽地方全域に12世紀の藤原仏が安置され、崇敬されている。

南のいわき市願成寺には、藤原氏出身の徳姫(徳尼)建立とされる白水阿弥陀堂がある。金色堂に酷似したこのお堂も国宝である。

西では、12世紀の仏像が多数ある慈恩寺のある寒河江地方は、都の藤原氏の荘園があった地であるが、この寺には奥州藤原氏二代基衡さん寄進との伝承もある。

東では、釜石市鵜住居町川原遺跡に12世紀の鉄製武器(刀・鏃)製作工房と「平泉セット」の陶磁器が出土しており、奥州藤原氏の沿岸部の鉄把握も明らかになった。

住田町世田米の光勝寺の12世紀の木像阿弥陀如来坐像と両脇侍坐像は、秀衡さんが金山の掘子のために建立した阿弥陀院の本尊という。

なお気仙三観音と呼ばれる3体の十一面観音立像の巨像(大船渡市長谷寺・陸前高田市小友町常膳寺・同市矢作町観音寺)も奥州藤原氏時代に係る像である。

北の青森県大鰐町の大円寺の丈六の木像阿弥陀如来坐像も12世紀の作。津軽地方への入口を守るこの要地を、奥州藤原氏も重視したのであろう。

このように、藤原仏の広範な存在は、奥州藤原氏の地域支配の在り方、即ち、政治と仏教を組み合わせて推進したことを示すものであろう。先の『吾妻鏡』の記述を想起させる。

考古学から「平泉文化」を考える
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺区)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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