館長室から

#39 水無月 考古学から「平泉文化」を考える
「磐前村印」に関連して―東北地方出土の古代印章

2017.6.10

「磐前村印」に関して、東北地方に知られている古代印章と推定されるものを紹介する。

 

▲「国府厨印」-宮城県宮城郡七ヶ浜町花淵に鎮座する鼻節(花淵)神社蔵。縦・横4・1㌢、高さ3・9㌢、型式は弧紐無孔で「磐井村印」と同じである。七ヶ浜町指定文化財。平安時代か?
明治元年(1868)社殿修理中に境内で発見された。この地に陸奥国府の多賀城の厨があり、海産物の調達の際に使用された印章ではないかと推定された。多賀城に近接する海港でもあったこの地に、多賀城に関連する何らかの官衙(役所)が存在した可能性は高い。
なお、塩釜神社宮司の遠藤信道氏は、「国司の品外の官である「主厨」が用いたものではないか、主厨は伊勢(三重県)・安房(千葉県)・陸奥・四国・九州などに置かれた品外正八位相当の官職である」と述べている。

 

▲「極楽寺印」-旧宮城県栗原郡高清水町(現栗原市)影の沢、通称折木山の林道工事の際に、地下30㌢の深さより偶然発見された。縦・横4㌢、高さ3.84㌢、重さ90㌘、型式は莟紐有孔。平安時代か、宮城県指定文化財。

 

印字の「極楽寺」は『日本文徳天皇実録』の天安元年(857)六月三日条に(原漢文)、「陸奥国にある極楽寺が定額寺に預かる。燈分幷びに修理料として稻千束、墾田十町を充てる云々」と見える陸奥国極楽寺のこととされた。定額寺は国分寺に次ぐ高い格の寺院である。
司東眞雄氏は、極楽寺の所在地を岩手県北上市稻瀬町の国見山廃寺跡(国指定史跡)と特定した。
そして、国見山にあった極楽寺の僧侶が何らかの用務で多賀城に印章を持参する際に、それを落としてしまった(それを後世に掘り出した)ものと推定した。これはやや苦しい推理であろう。

 

▲国見寺廃寺跡の発掘調査ー北上市教育委員会によって20年以上継続調査され、その変遷が明らかになっている。
即ち、「山内最初の堂宇は『文徳實録』の記述と同じ9世紀半ばに建立されたが、極めて小規模なもので、とても定額寺とはみなしがたい。
10世紀半ばから後半にかけて堂宇の数・規模ともに拡大傾向に転じ、11世紀後半にそのピークに達する。この時勢拡大の背景には、安倍・清原氏の庇護があったと思われる。
そして12世紀に入ると堂宇は殆ど見られなくなる、言うまでもなく、本格的な寺院は平泉へ集中したのだろう。
このように、国見寺は平泉以前の仏教聖地であったが、その開始が定額寺極楽寺であったとは言いがたい。」
以上の調査結果を尊重すると、定額寺の「陸奥国極楽寺」の位置は、国見寺廃寺とは別の場所に求める必要がある。この印章が出土した折木山には寺院跡が所在する由であり、やはり旧高清水町周辺に求めるべきではないか。

考古学から「平泉文化」を考える
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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