館長室から

#41 葉月 考古学から「平泉文化」を考える㉜
奥州藤原氏時代の馬

2017.8.8

奥州藤原氏時代には騎馬戦が一般的であった。騎馬戦の様子は『前九年合戦絵詞』や『後三年合戦絵詞』などの絵巻物、また、『義経記』他の軍記物語に、その様子が活写されている。

 

◆糠部の駿馬

古代の末期から中世にかけて、駿馬(名馬)の産地として有名なのが糠部郡であった。糠部郡とは、かつて陸奥国に存在した郡で、現在の青森県東半分から岩手県北部(二戸郡・九戸郡)にかけての地域(旧盛岡藩の北半部)を呼んだもの。
『吾妻鏡』文治五年(1189)九月十七日条の所謂「寺塔已下注文」の毛越寺の項に記された仏師雲慶への功物(贈り物)の中に「糠部駿馬」がある。この郡は、延久三年(1071)の延久合戦の後(奥羽が清原氏の支配下に入った後)に設置されたと推定できる。

 

◆九ヵ部四門の制

糠部郡を一~九までの「戸(へ、部とも)」に分け、一戸毎に七ヶ村を所属させ、その九つの戸を東西南北の四つの角に所属させたという。
或は、糠部郡内の主な地域を一戸~九戸に分け、余った四方の辺地を東西南北の門と呼んだものという。

 

◆戸立の馬!

その駿馬が糠部郡のどの「戸」であるかを示す言葉として「戸立の馬」が成立していたほどであった。とすると、「戸」は牧場のことか?

 

『吾妻鏡』に、源頼朝が後白河院に馬を献上した際、後白河院が「戸立」に興味を示したことが見えている。
元暦元年(1184)の宇治川の合戦(京都府宇治市)の時に、梶原景季が乗った磨墨は三戸立、佐々木高綱が乗った生唼は七戸立であったという。また、熊谷直実が上品絹二百匹を投じて求めた権太栗毛は一戸立であったという。

 

◆岩手県内の考古学的な馬の痕跡

これまで確認されているのは、五世紀後半~六世紀の角塚古墳(胆沢区南都田)より馬型埴輪が出土。また、古墳時代を築いた農民たちのムラの跡と思われる中半入遺跡(水沢区・胆沢区)より、同時代の馬の首の骨・歯が出土している。
それより遅れる7~8世紀の房の沢古墳群(山田町)の馬用の古墳より馬骨が出土している。さらに、既述の中半入遺跡の10世紀の水田跡に馬(牛・人間も)の足跡を確認。

 

◆平泉より出土した馬具・馬骨

柳之御所遺跡より鞍の部品・杏葉轡が、志羅山遺跡(平泉町平泉)より鴛鴦文銅象嵌鏡轡などの馬具が出土。この鏡轡のデザインは京都出土のものに酷似するが、材質は地元産の由。
さらに、志羅山遺跡より数体分の馬の首・歯も出土。動物遺存体研究の第一人者である小林和彦氏(八戸市縄文学習館)の鑑定によると、「食用にするためか、解体されて棄てられたものがある。その体高は136.3㌢、129.1㌢と推定され、中型在来馬の範疇に収まるが、やや大型になる。一般的に大きい馬は乗馬用に、小型の馬は役用に用いられた」由である。
奥州藤原氏時代の乗馬資料として極めて貴重である。

考古学から「平泉文化」を考える
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺区)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

過去のコラム一覧はこちら>>ツキイチコラムバックナンバー