館長室から

#42 長月 考古学から「平泉文化」を考える
平泉での在地生産

2017.9.9

20世紀の前半まで、奥州藤原文化の評価は極めて低かった。或は「色眼鏡で見られていた」というほかない。

 

△例えば、三代秀衡さんが無量光院本堂の四壁扉に観無量寿経の大意を図絵したうえに、「秀衡自ら狩猟の躰を図絵」したことを、清浄が求められる堂宇の壁に殺生の様を描いたもので、仏教への無理解ぶりを示す行為、とされた。
しかし、最近の評価は逆であって、仏教への深い理解、自省の念の発露と解されている。即ち、「自分は武人である。従って、やむを得ず人を殺傷することが避けられない。まるで、狩人や漁師が生きてゆくために、やむを得ず生き物の命を奪うように。そのように罪深い存在の自分であるが、それでも極楽へ往生したいと切に願っている。」と。まるで「悪人正機説」に通じる深い思いを表したものと評価されている。

 

△平泉に残る金色堂や仏像などの文物「平泉文化なるもの」は、その豊かな経済力にまかせて、京都から完成品を購入し運搬しただけの底の浅い文化である、とも評価された。奥州藤原氏に対する都貴族的蔑視に連なる評価であった。

 

◆平泉の地で様々な生産活動が行われた!

1980年代より本格化した平泉町内の遺跡群に対する緊急発掘調査(東北自動車道や新幹線、堤防建設工事に先立って実施される調査、学術調査の対極に位置)は、奥州藤原氏が実に様々なものを平泉で生産(在地生産)していたことを明らかにしてきた。
在地生産の開始には、先進地の先進地の職人を招いて指導を受ける必要があったから、在地生産の背景に人の動き、流入も想定しなければならない。
在地生産の種類・分野を紹介しよう。

 

▲金属加工―鉄滓・鍛造薄片・フイゴの羽口(ノズル)・坩堝などの存在から鉄器・銅器の生産加工を行った。白山社遺跡の鋳造遺構や鋳型の存在から鉄器・銅器の生産加工を行った。白山社遺跡の鋳造遺構や鋳型の存在から、梵鐘や鏡も生産していた。

 

▲木材加工―鑿・金槌の存在から木工関連を行っていた(建築部材加工から、調度品・椀・下駄などの製造まで)。

 

▲刳り物―鉢・椀の未完成品が存在。

 

▲漆加工―漆濾布・刷毛・パレット用椀の存在から漆器生産を行っていた。

 

▲紡織・縫製―編針・糸車・織機部品・鯨尺の存在や、『人々給絹日記』墨書折敷の記述内容から紡織・縫製・染色作業も行っていた。

 

▲かわらけ・瓦・渥美焼類似陶器・珠洲焼類似陶器の焼成窯の存在(かわらけー前沢区白鳥館遺跡、瓦―平泉町鈴沢瓦窯跡、渥美焼―宮城県石巻市水沼窯跡・平泉町花立窯跡、珠洲様―秋田県二ツ井町エヒバチ長根窯跡)から、各種の焼きものを生産。

 

▲白山神社遺跡の梵鐘鋳造遺構やかわらけ窯跡・瓦窯跡・陶器窯跡以外に工房的な遺構は未発見である。しかし、政庁「平泉舘」と推定されている柳之御所遺跡内より生産関連遺物が多数出土していることは、政庁内部で手工業生産も併せ行っていたことを思わせる。政治と、その政治的行為に係る物の生産活動が一体化していた段階にあったということであろうか。後続する鎌倉幕府になると、それらは分離している。

考古学から「平泉文化」を考える
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺区)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

過去のコラム一覧はこちら>>ツキイチコラムバックナンバー