館長室から

#43 神無月 考古学から「平泉文化」を考える
奥州藤原氏の独自性

2017.10.7

奥州藤原文化が、都の文化の猿真似では決してなかったことを示す考古学的事実がある。所謂「寺塔已下注文」にも記された通り、奥州藤原氏は都の文物を手本にしていたことは明らかである。しかし、その一方で、都風とは異なる形で表現するなどして、自らの独自性を主張していたのであった。
例えば、三代秀衡が建立した無量光院は宇治平等院鳳凰堂を手本にしていたが、翼廊部分の柱間などは無量光院の方が長いのである。
その他の考古学的事実を紹介する。

 

▲経塚への埋経方法

経塚とは、釈迦入滅(死去)の五十六億七千万年後に弥勒菩薩が下生し、衆生を済度する時まで経典を保存するために塚を築き、その中に経巻を収める行為である。所謂末法思想によるものである。日本では永承七年(1052)より末法に入るとされ、経塚の造営が盛んに行われた。奥州藤原氏も東北地方各地に築いたが、とりわけ岩手県に多い。
埋経には一定の方式があった。まず、複数の紙本経(経巻)を専用の容器である経筒に入れる。経筒は多くは円筒形・六角形・八角形で、青銅製・金銅性・鉄製・陶器製・石製などがある。この器の表面に埋経の趣旨が刻まれることが多い。
次に、この経筒を、さらに一回り大きい容器(経筒外容器)に入れる。経筒外容器には石製などの専用容器があったが、陶磁器の壺や甕を転用する場合も多い。
この外容器を、地面を掘って穴とし、その周囲を石で補強して造った1㍍四方前後の小さな空間(石室・石槨などと呼ぶ)に納置し、石室に石で蓋をし、その上に土や石を積んで塚を築く、というのが正式な方法である。
奥州藤原氏も、この正式な埋経方法を当然知っていた。既に世界文化遺産に登録された「都市平泉」のランドマークともいうべき金鶏山経塚から蓋付きの銅製(銅鋳製)経筒と陶器製の経筒外容器が出土している。
また、旧和賀郡東和町北成島の毘沙門山経塚から蓋付の銅鋳製経筒と珠洲焼の経筒が出土している。
しかし、奥州藤原氏のお膝元である岩手県域では、多くの経塚で経筒が省略され、経巻が経筒外容器に相当する陶磁器の壺や甕の優品に直接入れて埋納されている。その結果、岩手県の経塚からは在銘(文字ある)資料は殆ど出土していない。

 

▲寺ノ上経塚の「かわらけ経」?

旧前沢町古城の国道4号線の西方、大林寺の上方、比高40㍍の崖の上に築かれた4基の経塚群があり、うち1基に極めて珍しい埋経方法が見られた。即ち、石室内に経筒容器として納置された渥美焼壺の周囲に、法華経を墨書した大量の「かわらけ」が充填されていたのである。「かわらけ経」ともいうべきものを併用したもので、全国的にも類例を知らない。まさに奥州藤原氏の独自性であろう。

考古学から「平泉文化」を考える
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺区)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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