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「炎立つ」は小説である。事実とは異なる。 安倍・清原・藤原氏の軌跡 |
奥州藤原氏の興亡 |
| ●長い戦乱の中で生を享けた藤原清衡 |
坂上田村麻呂の征討により、中央朝廷の版図に入った岩手県地方も、時代が下がって中央政府の統制力の衰退とともに、再び、蝦夷の支配するところとなり、特に俘囚の長といわれた安倍頼時は、奥六郡(現在の岩手県)に強力な権力を握るようになりました。平泉藤原氏初代・清衡の父の藤原経清は、百足退治の伝説で有名な田原の藤太(俵藤太とも称される)こと藤原秀郷五世の孫に当たります。陸奥国府の官人で、亘理権太夫とも称され、散位(無役)の五位の位階を持っていたといわれています。この経清が安倍頼時の嫁婿となって、当時の江刺郡豊田館(現奥州市江刺区)に移り住み、1056年、この地で藤原清衡が生まれたと伝えられています。 |
| ●前九年合戦で安倍・経清軍敗北 |
あまりに勢力が強大となり、ともすれば中央の支配が及ばなくなった安倍氏を征討するため、1051年、朝廷は陸奥守・藤原登任に命じてその討伐を図りましたが大敗、代わって鎮守府将軍として派遣された源頼義・義家父子と安倍氏の戦いが「前九年合戦(1051〜1062)」です。清衡の父・経清は、初め国府の官人として頼義の麾下に属しましたが、後に義父の頼時のもとに走り、安倍氏とともに九年余りにわたって戦い、度々戦勝を挙げました。しかし、最後は隣国出羽の豪族・清原氏の援けを得た源軍に厨川柵(現盛岡市)で敗れてしまいます。 この戦いによって経清は処刑され、安倍氏も滅び「前九年合戦」は終結しました。勝者である清原武則は鎮守府将軍となり、安倍氏の領地だった奥六郡を合わせ持つ、奥羽の巨大豪族となりました。そして、清衡の母は敵将の子息・武貞と再婚させられ、母子ともに清原氏に身を寄せることになります。清衡、七歳の時でした。 |
| ●後三年合戦で清衡・奥州を制覇 |
| 清原氏に入った清衡には、跡目争いが待ち受けていました。すなわち、真衡は先妻の子、清衡は連れ子、家衡は父の違う弟という血縁関係になります。真衡は安倍氏の旧衣川館、清衡は江刺の豊田館、家衡は出羽山北あたりにそれぞれ居住していたとされますが、この関係が清原氏内部の権力構造と複雑に絡み、抗争の原因となりました。 清原武貞の死後、清原氏のこの内紛に国司・源義家が干渉するようになり、これにより初めは清原一族の私闘だったものが、国司対清原氏の戦いに発展しました。これが「後三年合戦(1083〜1087)」の始まりです。 当初、真衡・義家対清衡・家衡という対立関係が、真衡の急死を機に清衡、家衡ともに義家の軍門に降り、奥六郡は清衡が胆沢・江刺・和賀の三郡、家衡が稗貫、紫波、岩手の三郡を与えられます。この処置に対し家衡は清原氏の直系を主張して兄の清衡に反目。応徳三年(1086)ひそかに清衡の暗殺を企て、豊田館に火をかけた揚げ句、妻子をはじめ一族を皆殺しにしました。 危うく難を逃れた清衡は、義家の援けを借り、大軍を率いて家衡征討に乗り出し、家衡の居城・金沢柵(現秋田県横手市)を攻め落としました。「後三年合戦」の後、清衡は清原氏に代わって奥羽の覇者となり、豊田館に住んで領地を納めながら産業の奨励、神仏の信仰に力を注ぐ一方、中央政府との連携を進め平泉建設の構想を練り始めたのです。 |
| ●平泉へ進出 黄金文化の花開く |
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年号 |
事項 |
802 |
征夷大将軍の坂上田村麻呂、胆沢城を築き鎮守府とする。 |
1051 |
「前九年合戦」始まる。 |
1056 |
源頼義が陸奥守となる。
藤原清衡生まれる。 源頼義が安倍頼時を追討する。 |
1062 |
厨川柵で安倍氏滅亡。「前九年合戦」終る。清衡の父・経清が処刑される。 |
1083 |
「後三年合戦」始まる。 |
1086 |
清原氏一族の抗争に巻き込まれ、清衡は豊田館で義弟・家衡に妻子を殺害される。31歳。 |
1087 |
金沢柵で清原氏滅亡。「後三年合戦」終結。清衡が奥羽の覇者となる。 |
1100頃 |
45歳ごろ、清衡が豊田館から平泉に移る。 |
1105 |
中尊寺一山の造営に着手。清衡50歳。二代基衡が生まれる。 |
1117 |
このころから、紺紙金銀字交書一切経の写経が始まる。清衡62歳。 |
1122 |
三代秀衡が生まれる。 |
1124 |
金色堂完成。清衡69歳。 |
1128 |
清衡死す。享年73歳。 |
1155 |
四代・泰衡生まれる。 |
1181 |
秀衡が陸奥守となる。 |
1187 |
源義経が平泉に身を寄せる。 |
1189 |
源頼朝により、平泉藤原氏が滅亡。 |
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