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奥州藤原氏

「炎立つ」は小説である。事実とは異なる。
それは当の自分が一番よく承知しているはずなのに、二年以上も平泉の黄金の世紀に身を浸していると、心がどんどん蝦夷たちの方に傾いていく。
フィクションと現実の境界が限りなく曖昧となっていく。
今や安倍貞任を筆頭に藤原一族の礎となった藤原経清や初代清衡は、私にとって身内にも等しいほど近しい存在となりはじめました。
彼らの思いや願いや夢が、そのまま私の心に重なりはじめている。
今の日本は確かに豊かになり、世界からも羨まれるくらいに経済的成長を遂げているが、半面、人の心がそれに追いついていない。物に支配されている。
若者たちが新興宗教にすがるのは、すべて心の不安のせいだ。
どういう未来が待ち受けているのかと、怖くて仕方がないのである。
飢えに苦しんでいる国の人々の目からは日本は黄金の楽土と映るかもしれないが、その実、多くの日本人が夢を失って、生気のない日常を繰り返している。
と言って個人の力ではどうしようもできない。見た目は豊かであるだけに、なにをどう直せばよいかも分からないのだ。
しかし、かつての日本には黄金に輝く楽土が実在した。
安倍貞任が望み、藤原経清が膨らませ、藤原清衡が実現させた楽土・陸奥である。
民が笑い、民のすべてが一つの目標に向けて力を終結させた国家が確かにあったのである。歴史に「もしも」は許されないことだが、もし平泉が滅ぼされることなく存続したなら、日本は今ユートピアとなっていたかもしれない。
書き続けながら私の頭を占めていたのは常にその思いであった。
平泉の黄金の世紀を知ることは日本の未来への指針ともなる。

安倍・清原・藤原氏の軌跡
「炎立つ国・奥州」高橋克彦編
巻頭言〜黄金楽土をふたたび〜より
出版/川嶋印刷株式会社

奥州藤原氏の興亡
●長い戦乱の中で生を享けた藤原清衡
安倍・清原・藤原氏の関係系図 坂上田村麻呂の征討により、中央朝廷の版図に入った岩手県地方も、時代が下がって中央政府の統制力の衰退とともに、再び、蝦夷の支配するところとなり、特に俘囚の長といわれた安倍頼時は、奥六郡(現在の岩手県)に強力な権力を握るようになりました。
 平泉藤原氏初代・清衡の父の藤原経清は、百足退治の伝説で有名な田原の藤太(俵藤太とも称される)こと藤原秀郷五世の孫に当たります。陸奥国府の官人で、亘理権太夫とも称され、散位(無役)の五位の位階を持っていたといわれています。この経清が安倍頼時の嫁婿となって、当時の江刺郡豊田館(現奥州市江刺区)に移り住み、1056年、この地で藤原清衡が生まれたと伝えられています。
●前九年合戦で安倍・経清軍敗北
藤原氏勢力図あまりに勢力が強大となり、ともすれば中央の支配が及ばなくなった安倍氏を征討するため、1051年、朝廷は陸奥守・藤原登任に命じてその討伐を図りましたが大敗、代わって鎮守府将軍として派遣された源頼義・義家父子と安倍氏の戦いが「前九年合戦(1051〜1062)」です。
 清衡の父・経清は、初め国府の官人として頼義の麾下に属しましたが、後に義父の頼時のもとに走り、安倍氏とともに九年余りにわたって戦い、度々戦勝を挙げました。しかし、最後は隣国出羽の豪族・清原氏の援けを得た源軍に厨川柵(現盛岡市)で敗れてしまいます。
 この戦いによって経清は処刑され、安倍氏も滅び「前九年合戦」は終結しました。勝者である清原武則は鎮守府将軍となり、安倍氏の領地だった奥六郡を合わせ持つ、奥羽の巨大豪族となりました。そして、清衡の母は敵将の子息・武貞と再婚させられ、母子ともに清原氏に身を寄せることになります。清衡、七歳の時でした。
●後三年合戦で清衡・奥州を制覇
 清原氏に入った清衡には、跡目争いが待ち受けていました。すなわち、真衡は先妻の子、清衡は連れ子、家衡は父の違う弟という血縁関係になります。真衡は安倍氏の旧衣川館、清衡は江刺の豊田館、家衡は出羽山北あたりにそれぞれ居住していたとされますが、この関係が清原氏内部の権力構造と複雑に絡み、抗争の原因となりました。
 清原武貞の死後、清原氏のこの内紛に国司・源義家が干渉するようになり、これにより初めは清原一族の私闘だったものが、国司対清原氏の戦いに発展しました。これが「後三年合戦(1083〜1087)」の始まりです。
 当初、真衡・義家対清衡・家衡という対立関係が、真衡の急死を機に清衡、家衡ともに義家の軍門に降り、奥六郡は清衡が胆沢・江刺・和賀の三郡、家衡が稗貫、紫波、岩手の三郡を与えられます。この処置に対し家衡は清原氏の直系を主張して兄の清衡に反目。応徳三年(1086)ひそかに清衡の暗殺を企て、豊田館に火をかけた揚げ句、妻子をはじめ一族を皆殺しにしました。
 危うく難を逃れた清衡は、義家の援けを借り、大軍を率いて家衡征討に乗り出し、家衡の居城・金沢柵(現秋田県横手市)を攻め落としました。「後三年合戦」の後、清衡は清原氏に代わって奥羽の覇者となり、豊田館に住んで領地を納めながら産業の奨励、神仏の信仰に力を注ぐ一方、中央政府との連携を進め平泉建設の構想を練り始めたのです。  
●平泉へ進出 黄金文化の花開く
 豊田館から平泉に移った清衡はまず、白河(福島県白河市)から外ヶ浜(青森県津軽半島の東岸一帯)に至る道の一町(約109メートル)ごとに、10年がかりで笠卒塔婆を建てました。次に中尊寺の建立に着手し、50歳の時に最初院、53歳の時に大長寿院、67歳の時に経蔵、そして69歳の時に金色堂を完成させました。
 さらに、清衡は紺紙金銀字交書一切経五千三百余巻の奉納を思い立ち、江刺郡益沢院で大勢の僧侶に写経を命じ、大治元年(1126)に奉納しています。この年、清衡はその実力が中央にも認められ正六位上押領使に命ぜられました。
 平泉での約30年間、清衡は中尊寺の建立など大仕事を成し遂げ大治三年(1128年)73歳の生涯を閉じます。その後、清衡の子・基衡、そして孫の秀衡によって平泉の黄金時代が続きました。四代の泰衡に至り、源義経をかくまったことを理由に、源頼朝に攻め滅ぼされ、栄華を誇った藤原氏は滅亡しました。
 本市には清衡生誕の豊田館跡、父・経清とその一党の墓と伝えられる五位塚墳丘群、国宝・金銀字交書一切経の写経が行われた益沢院跡など、多くの関連史跡が残されています。  
年号
事項
802
征夷大将軍の坂上田村麻呂、胆沢城を築き鎮守府とする。
1051
「前九年合戦」始まる。
1056
源頼義が陸奥守となる。 藤原清衡生まれる。
源頼義が安倍頼時を追討する。
1062
厨川柵で安倍氏滅亡。「前九年合戦」終る。清衡の父・経清が処刑される。
1083
「後三年合戦」始まる。
1086
清原氏一族の抗争に巻き込まれ、清衡は豊田館で義弟・家衡に妻子を殺害される。31歳。
1087
金沢柵で清原氏滅亡。「後三年合戦」終結。清衡が奥羽の覇者となる。
1100頃
45歳ごろ、清衡が豊田館から平泉に移る。
1105
中尊寺一山の造営に着手。清衡50歳。二代基衡が生まれる。
1117
このころから、紺紙金銀字交書一切経の写経が始まる。清衡62歳。
1122
三代秀衡が生まれる。
1124
金色堂完成。清衡69歳。
1128
清衡死す。享年73歳。
1155
四代・泰衡生まれる。
1181
秀衡が陸奥守となる。
1187
源義経が平泉に身を寄せる。
1189
源頼朝により、平泉藤原氏が滅亡。
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