館長室から

#82 睦月 義経は生きて北へ逃れた?―蝦夷地から成吉思汗まで―③

2021年1月7日

◆旧江刺郡地方の義経伝説他①
 次に江刺郡地方の状況を紹介します。はじめに、安永年間(18世紀末)頃に伝えられていた村人たちの伝承を、藩内の各村々から提出された「風土記御用書出」ほかの公的文書によって見てみることにします(読み下し文)。
 ① (江刺郡片岡村(現奥州市江刺岩谷堂))『真言宗醫王山重染寺書出』
「寺に付き故事、但し建久年中(1190~99)鈴木三郎重家の子息同姓小太郎重染罷り下り、亡君と亡き父追福の寺を建立、即ち重染寺と号し候由申し伝え候こと(中略)古什物一笈一貨、但し鈴木小太郎重染の笈(下略)」
 ② 『江刺郡餅田村風土記御用書出』
「(古館)一豊田城 平(城)東西五拾七間東西三拾九間 但し城主は亘理権太夫藤原軽清居城の由申し伝え候。一高館 但し八幡太郎義家公の居城と申し伝え候」
 ③ 『豊田城碑文』
「此の地や東西五十七歩、南北三十九歩あり。昔亘理権利太夫軽清の居城なり。軽清は平泉役に戦死す。その子権太郎清衡勤王の勲あるを以て、即ち奥の六郡に封ぜらる」
 ④ 『江刺郡黒石村(現奥州市水沢)風土記御用書出』
「(名水)一高清水 康平5年(1062)八幡太郎義家安倍貞任追討の節弓の弭にて掘りたまう井戸なりと申し伝え候」(名木)一柏木 一本 正法寺内但し右大将頼朝実植えと申し伝え候」
 ⑤ 『江刺郡高寺村(現奥州市江刺愛宕)風土記御用書出』
「(古碑)三つあり、但し鈴木三郎由緒の石碑の由申し伝え候」
 ⑥ 『江刺郡三照村(現奥州市江刺稲瀬)風土記御用書出』
「(古塚)古塚 但し尼将軍塚と申し唱え候。頼朝公御台様当郡へお下りなられ候御仮屋敷の跡、当村御辺と申し唱え(中略)尼将軍塚は御台様葬所にて左右に塚二つ御座候ところ、一つは御衣裳塚、一つは御金埋め候塚の由」
 ⑦ 『江刺郡下門岡村(現北上市稲瀬町)風土記御用書出』
「(古歌)一首 陸奥の門岡山のほととぎす稲瀬の渡かけてなくらん」
 ⑧ 『江刺郡下口内村(現北上市口内町)風土記御用書出』
「(古歌)萬蔵寺観音堂において遠藤武者盛遠詠み候由申し伝え候 あらとうとよろつの軽を収め置き一仏せゆど(ママ)ひかりなるらん」
 ⑨ 『江刺郡軽石村(現奥州市江刺広瀬)風土記御用書出』
「(名石)此所を音石鳴石とも申し唱え候由。往古佐藤秀衡(藤原秀衡のこと)此処へ詣でてこの石を見たまひて、御館の園の石になさんと男石を大勢の人夫を以て引かせたまうに、一丁程引き出すといえども、後さらに動くことなし。しきりに女石枕石を慕う声ありて鳴ることやまず、諸人不思議をなし、其処に棄て置き候ところ、いずくより参り候や、貞春と申す座頭来たりて、その石を元の所へかるがると引き戻す。それよりして軽石村と名付け候由申し伝え候」(以上は『江刺市史 第五巻 資料編 近世』より。なお、以下の引用は、原文を読み下し文・現代文訳・大意としています)。
 当時の多くの人々が認めていた伝承ということになります。

義経は生きて北へ逃れた?
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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