館長室から

#110 皐月 「奥の細道」の旅―最終目的地は平泉か―②

2023年5月15日

◆自己を高める旅
 『奥の細道』の旅の目的については、芭蕉の俳人としての自己をいっそう高めるための旅という説がもっとも広く受け入れられています。
 例えば、萩原恭男氏は「自らの生きる道を俳諧一筋と定め、「天下の俳諧」をまっすぐに進むためには、とどまることのない精進があるのみであって、芭蕉にとって旅はそのための一生変わらぬ修行の場であったにちがいない。その意味では、この「おくのほそ道」の旅も、前二回の「野ざらし紀行」や「笈の小文」の旅を通して確信した自らの信念をさらに深めるためのものであり、東北・北陸の地を選んだことに特に深いい意味はないのである」と早くに記しています(『芭蕉 おくのほそ道』岩波書店)。

◆義経関連の旅
 最近は新しい観点の説が出てきています。
 *中野沙恵氏は「『奥の細道』という作品は、旅の折り返し地点がたまたま平泉であるという単純な問題ではなく、作品としての『奥の細道』も、平泉の段が全体の真中になるように構成されており、はじめから平泉を目指しての旅であった」、と述べています(『NHKラジオ古典、購読』)。
*工藤雅樹氏は、「源義経が平泉で最期を遂げたのは文治5年(1189)のことであった。松尾芭蕉の「奥の細道」の旅は、それから丁度500年後の元禄2年(1689)にあたっている。この旅で芭蕉は、平泉を折り返し地点として帰途についており、平泉では「夏草や兵どもが夢の跡」「五月雨の降のこしてや光堂」の二句を残している」と記しています(『平泉への道―国府多賀城・胆沢鎮守府・平泉藤原氏―』雄山閣)。
 *石田洵氏は「白河の関を越えて奥州路に入った芭蕉は、義経伝説の地を行くことになります。
 芭蕉の旅は、歌枕の地とともに、義経関係の地を訪れる意図があったようです(中略)
 『おくのほそ道』では「なみだ」の語を使っているのは七ヵ所あります。この「なみだ」の語が「落とす」と重複するところは三ヵ所しかありません。芭蕉自身が「泪を落す」という表現は、この佐藤庄司と平泉の高館の二ヵ所だけです」と記しています(『平泉をめぐる文学―芭蕉に至るロマンの世界』本の森)。
 *小澤實氏は、「『おくのほそ道』にはいくつかの目的地がございました。まず、挙げられるのは松島、象潟ですね。「松島」「佐潟」という芭蕉が心惹かれた西行に関わる歌枕が目的でありました。それから「出羽三山」という聖地も大変思い入れのある場所だったと思います。
 そして「平泉」です。芭蕉が敬愛した西行が二度訪れている地であり、そして芭蕉も好きだった、源平時代を代表する源義経の最期の地でもありました。そういう多面的な目的地をもつところが、『おくのほそ道』の魅力になっていると思うのです」と述べています(「芭蕉の風景」第61回平泉芭蕉祭全国俳句大会特別講演『関山第 28号』所収)。

◆「五百年」という数字
 『おくのほそ道』には五百年という数字が二ヵ所出ており、この年数が芭蕉の問題意識にのぼっていたのは確実と思われます。
 *(塩竈)「神前に古き宝燈有。かねの戸びらの面に、「文治三年泉三郎寄進」と有。五百年来の俤、今目の前にうかびて、そゞろに珍し。」
 *(平泉)「『曽良本 奥の細道』によると、
 「芭蕉の句は、
  五月雨の降残してや光堂
  五月雨や年〱降も五百たび
(墨滅
蛍火の書は消つゝ柱かな
(墨滅
と推敲の跡が見えている」とのことです(金沢規雄「平泉」『奥の細道とみちのく文学の旅』里文出版)。
 この二ヵ所の「五百年は、明らかに奥州藤原氏滅亡後の五百年」の意味と思われます。

「奥の細道」の旅―最終目的地は平泉か―
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

2024年えさし郷土文化館館長退任

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