館長室から

#50 皐月 岩手の経塚群
―12世紀、奥州藤原氏時代を中心に①―

2018.5.7

◇末法思想!

思いもよらぬ悲惨な事態に陥った際に、人は「世も末だ」と嘆く。これは仏教の「末法(まっぽう)思想」から生まれた言葉である。

末法思想とは、釈尊(しゃくそん、お釈迦さま)の入滅(にゅうめつ、その死)後の1000年間(又は500年)正しい教えが行われ、証果(しょうか、修行の結果の悟り)が得られる正法(しょうぼう)の時代、その次の1000年間(又は500年)は教えは存在するが、真実の修行が行われず、証果を得ることができない像法(ぞうほう)の時代、その次の1000年は、教えが廃れ、修行しても悟りが得られない末法の時代となる、という悲観的な世界観である。

 

◇経塚の築造!

そして、釈尊入滅後、56億7千万年の後に、弥勒菩薩(みろくぼさつ)が下生(げしょう、この世に出現する)し、再び衆生(しゅじょう、生きとし生ける者)を済度(さいど、悟りを開かせる、救済)するという。まさに気の遠くなるような長い時間の後の救済である。

正法・像法各1000年説では、末法の時代へは永承七年(えいしょう、1052)より入ると考えられた。9世紀に入ると最澄(さいちょう、日本天台宗の開祖、767~822)は末法の世の到来を警告し、慈覚大師円仁(じかくたいし・えんにん、天台宗山門派の租、794~864)に至って如法経(にょほうきょう、法華経)の書写が行われるようになった。そして、弥勒の下生に備えて経典を埋納し保存しようという信仰が、経塚の築造という作善(さぜん、善根をなすこと)を生み出すこととなった。

 

◇経塚は藤原道長より!

現在までのところ、国内最古の経塚は、あの藤原道長(ふじわらのみちなが、兼家(かねいえ)の第5子、966~1027)が大和の金峯山(きんぷせん、奈良県吉野山ほか)山頂に経筒(きょうづつ)を埋納した例とされる。その経筒には寛弘四年(かんこう、1007)、その中に納められた紺紙金泥経(こんし・きんでいきょう)には長徳四年(ちょうとく、998)の年号が記されていた。

それ以降、経塚は盛んに築かれるようになり、11世紀後半から12世紀全般にかけて全国的に築造が大流行した。

経塚の性質は時代とともに変化し、中世から近世になると、本来の目的の経典の保存に加えて、極楽往生や現世安穏(げんせ・あんのん)・所領の安泰という現実的願いも盛り込まれていった。

また、納経の方法には経巻(きょうかん)の埋納や礫石経(れきせききょう)などがあった。

さらに時代が下がると追善供養(ついぜん・くよう、死者の冥福を祈る供養)が最大の目的・動機になってゆき、一字一石経(いちじ・いっせききょう)の埋納が主流となってゆく。

 

◇奥州藤原氏にも経塚を!

11世紀末~12世紀は経塚の流行期であり、まさにその時期に奥羽両国の支配を任された奥州藤原氏も多くの経塚を築いた。

以下には、岩手地方を中心に、一部東北・北海道地区も加えて、奥州藤原氏時代の経塚群のありようを概観することとする。

2011年に中尊寺・毛越寺・観自在王院跡・無量光院跡・金鶏山の5史跡がユネスコ世界遺産に登録された。その直後より、柳之御所遺跡・達谷窟(以上平泉町)・骨寺村荘園遺跡・白鳥館遺跡(奥州市)の5史跡の追加登録の運動が展開されている。

その運動をさらに盛り上げるには、「平泉の文化遺産」をより身近に感じることが必要と考え、その一環としてこのテーマを設置したところである。

岩手の経塚群
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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