館長室から

#54 長月 岩手の経塚群
―12世紀、奥州藤原氏時代を中心に⑤―

2018.9.1

◇分布の特徴

経塚の大半は県央部と県南部(北上川上・中流域)に集中している。北緯40度以北の県北部には、安比川・馬渕川流域の旧浄法寺町と一戸町に2例が存在する程度であり、三陸沿岸部では陸前高田市の1例に過ぎない。

さらに、県央と県南部を見ると、その大半は盛岡市以南の北上川流域に存在している。この現象は、12世紀代の陶磁器を出土する遺跡の分布状態にも見られる。

盛岡市以南の北上川流域とは、換言すると「奥六郡(おくろくぐん)」の領域と重なる。

従って、奥州藤原氏の最も本来的な勢力範囲は、安倍氏と共通する「奥六郡」域であったことを示唆していよう。

 

◇立地と地形の特徴

経塚が立地する地形は山地・丘陵・河岸段丘(かがん・だんきゅう)・沖積地(ちゅうせきち)に大別できるが、産地・丘陵が最も多く、河岸段丘がそれを次ぐ。

山地・丘陵側の例は、ほとんどが山頂、或いは尾根の頂部や先端部に立地する。河岸段丘の場合は、その縁(へり)に立地する場合と、縁から離れた平坦部に立地する場合がある。

標高を見ると、515㍍の新山神社境内遺跡が最も高く、430㍍の山館経塚、328㍍の城内山頂遺跡がそれに次ぐ。

なお、新山神社境内遺跡からは、壺の出土とは地点を異にして、平安時代末期から鎌倉時代初期の和鏡や懸仏(かけぼとけ)が出土しており、山岳宗教の場でもあった。

立地する標高の絶対高はさておき、経塚は眺望の開けた場所にあることが多い。例外は、在銘石櫃を出土した高勝寺跡で、山岳裾部への立地である。

 

◇塚の藪

現在確認できる藪は、13遺跡32基である。内訳は、1基が金鶏山(数基とも推定)・鈴懸の森・万松寺・土踏まずの丘経塚、丹内山神社、高松山の綱森・西方寺毘沙門堂経塚、3基が三熊野毘沙門山経塚、4基が寺ノ上と山屋館経塚である。南部工業団地K区では7基の塚が連結しており、一連の経塚であろう。

 

◇塚の形・規模

塚の形は、10遺跡22基が円形で、高松山綱森の2基は方形である。また、土踏まずの丘は不整な台形、7基が連結した南部工業団地は、概ね隅丸方形(すみまる・ほうけい)である。

規模は、下底部での直径が5~6㍍前後、高さは1㍍未満のものが多い。その中で、金鶏山は直径14㍍・高さ1.3㍍と大きく、さらに土踏まずの丘は下底部の規模が50×80㍍、頂部のそれが7×10㍍、頂部と裾部の高さが12~16㍍もあり、極めて大型である。

 

◇主体部の構造、周溝

正式の調査例が少なく、不明な点が多いのは残念である。明らかに石室を伴う有槨式(ゆうかくしき)のものは、丹内山神社2基・山屋館4基・須々孫館経塚2基である。

万松寺経塚は石室であった可能性がある。土踏まずの丘では玉石を取り除いて遺物を発見したが、底石ではなく、土の上に直接置かれていた。金鶏山でも玉石が厚く一面に広がっていたが、石室の有無には触れられていない。城内山頂では、一辺約21㌢、深さ22㌢以上の、大略隅丸方形に集塊岩を彫りこんだ主体部に渥美袈裟襷文壺が出土した。

塚の廻りに明確な周溝を伴うのは、高松山綱森2号の1基と、南部工業団地の7基である。

岩手の経塚群
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

過去のコラム一覧はこちら>>ツキイチコラムバックナンバー