館長室から

#55 神無月 岩手の経塚群
―12世紀、奥州藤原氏時代を中心に⑥―

2018.10.5

◇出土遺物

▼埋経―紙製の巻物に経典を記した紙本経(しほんぎょう)の実物を残した例はないが、経巻の軸木の可能性ある木材の残片が、金鶏山と万松寺経塚に認められた。
金鶏山では銅製経筒の中に木片が、万松寺では壺の中に軸木が残っていたという。
また、珠洲系甕を出した比爪館跡では、「経瓶を据え素焼と青銅の二重経筒に経文が納めてあった」という。
 「かわらけ経」ともいうべき、法華経を「かわらけ」に墨書したもの)が寺ノ上経塚から出土している。主体部(石室)へ納置された渥美壺の周囲に充填されていたという。
壺に納めた経巻の保存をより確実にするため、壺の周囲も経典で覆ったものであろうか。この「かわらけ」は平泉のものに酷似しており、12世紀後半のものである。このような「かわらけ経」を充填した例は全国的にも見出すことができず、奥州藤原氏の独自性の一つと考えられる。
礫石経と思われる「息」字を墨書した礫が上須々孫館経塚001塚より出土。従って、奥州藤原氏時代に礫石経(一字一石経)を埋納した経塚が存在したことは確実である。
礫石経に関連すると思われるカタカナ文字で書かれた木簡様の資料が志羅山遺跡より出土している。即ち、「トヤカサキノ ニヨホウキヤウ ノイシヲハ ケチエンニ モタセタマフヘシ イツカノヒヨリ シウハチニチニ ウツニ シタマフナリ」というものである。
これを読み下すと、「鳥谷ヶ崎の如法経の石をば、結縁に持たせ給うべし 五日の日より十八日うつ(内に?)にし給うなり」となろうか。
一部意味不明ではあるが、礫石経塚造営への呼びかけ的なものではなかろうか。
なお、鳥谷ヶ崎(とやがさき)とは、平泉町内に現在も残る地名である。

 

▼経筒、経筒外容器―これらは、少例ではあるがきちんと出土しており、奥州藤原氏が正式の埋経作法を知っていたことは確実。
銅製経筒は金鶏山経塚、三熊野神社毘沙門山経塚群北経塚の2例、陶製経筒は同じ毘沙門山経塚群北経塚の1例、石製経筒は丹内山神社経塚東経塚の1例である。
経塚外容器には、三熊野神社毘沙門山経塚群北経塚の石櫃がある。なお、高勝寺跡の長承四年(1135)の記年銘のある石櫃は、蓋を持つ平らな箱型という珍しい形状である。或は、骨壺など、経筒外容器以外の用途を考えるべきかもしれない。

 

▼国産陶器類―奥州藤原氏の支配領内の経塚では経典の埋納容器に国産陶器の壺や甕を用いた例が圧倒的多数を占めている。専用の経筒等を省略し、陶磁器類を経筒と経筒外容器に用いたものと思われ、奥州藤原氏の独自性の一つと考えられる。
産地別に見ると、常滑産は、三筋文壺が12遺跡・13点、二筋文壺は2遺跡・2点、甕は3遺跡7点が知られている。また、五輪経塚より三筋文或は二筋文壺が出土しているのは確実であるが、現在所在不明。
渥美産は、袈裟襷文壺が2遺跡・2点、壺が6遺跡・7点、片口鉢が1遺跡・1点である。
猿投産は1遺跡・2点。
珠洲系(須恵器系)は6遺跡・6点である。
以上の産地別の比率を見ると、常滑と渥美産が圧倒的に多い。いずれも三河国(現愛知県)の窯である。これは奥州藤原氏と三河国の間にパイプが存在したことを示唆するものではなかろうか。

岩手の経塚群
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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