館長室から

#56 霜月 岩手の経塚群
―12世紀、奥州藤原氏時代を中心に⑦―

2018.11.1

◇出土遺物(続)

▼白磁四耳壺―北上川中流域に位置する豊田舘跡・丹内山神社西経塚・高松山経塚群経塚の3カ所・3点が出土している。高級陶磁器である中国産白磁を経壺に用いた背景は何であったろう。壺そのものに何らかの価値を見出していたのであろうか。
なお、丹内山神社では湖州鏡(こしゅうきょう)や北宋銭(ほくそうせん、祥符元宝(しょうふげんぽう))が共伴した。国産陶器が伴った例はない。

▼副葬品(経典に副えられた品)―悪鬼などから経巻を守ることを意図してともに納められた品である。
土製の皿は金鶏山経塚・三熊野神社毘沙門経塚群北経塚より各1点が出土。
和鏡(わきょう)は同じ毘沙門山北経塚より草花蝶鳥鏡(そうか・ちょうとり・きょう)、同南西経塚より萩飛鳥鏡(はぎ・ひちょう・きょう)が各1点出土。
なお、先に挙げた丹内山神社の方形(ほうけい)の個州鏡は白磁四耳壺の蓋として用いられたものであろう。
湖州鏡とは、背面に鋳造地の中国浙江省湖州(せっこうしょう・こしゅう)の地名を鋳出していることからの名称で、宋代の鏡。平安~鎌倉時代に輸入され、経塚から多く出土する鏡である。方形・円形・六花形など多様である。
刀身や刀子、鏃の残片は金鶏山経塚・三熊野神社毘沙門山経塚群北経塚・土踏まずの丘経塚より出土。
平瓦と漆器椀断片・砂金が金鶏山経塚より出土。
中国銭は丹内山経塚より出土。具体的に挙げると、西経塚より祥符元宝・1枚(しょうふげんぽう、北宋、1008年初鋳)。東経塚より唐銭と南宋銭各1点、北宋銭16点が出土。
その内訳は、開元通宝(かいげん・つうほう、唐、621年)・淳化通宝(じゅんか、北宋、990年)・景徳元宝(けいとく・げんぽう、北宋、1004年)・天幑禧通宝(てんき、北宋、1017年)・天聖元宝(てんせい、北宋、1023年)・皇宋通宝(こうそう、北宋、1039年)・熈寧元宝(きねい、北宋、1068年)・元豊通宝(げんぽう、北宋、1078年)・元祐通宝(げんゆう、北宋、1086年)・紹聖元宝(しょうせい、北宋、1094年)・聖宋元宝(せいそう、北宋、1101年)・慶元通宝(けいげん、南宋、1195年)である。この経塚は12世紀末前後ということになる。

▼その他―山屋館経塚に銅張り木箱のようなもの、城内山頂の穴の周囲に釘1点が出土。

 

◇経塚の年代

紀年銘のある遺物が少なく、遺跡(塚)の年代は国産陶器・白磁・かわらけ・和鏡・中国銭などから推定するしかない。
唯一紀年銘のある高勝寺跡の石櫃は長承四年(1135)である。
国産陶器の大半は12世紀後半台を示すが、金鶏山経塚の渥美袈裟襷文壺は12世紀初期、越戸内経塚と一本松経塚の渥美壺は12世紀前半、城内山頂の渥美袈裟襷文壺は12世紀中葉、南部工業団地の渥美壺は12世紀中葉~後半代、山屋館経塚4号塚の常滑三筋文壺は12世紀第2四半期~中葉である。珠洲(須恵器)系も12世紀後半代が多いが、西方寺毘沙門堂経塚の二筋文壺は平安時代末~鎌倉時代初期である。また、鹿之畑経塚と湯壺経塚の常滑二筋文壺は12世紀末に近い。
中国産では、豊田舘跡の縦文筋文を持つ白磁四耳壺は11世紀後半~12世紀初期、丹内山神社西経塚と高松山経塚出土の白磁四耳壺は12世紀後半代である。寺ノ上経塚の法華経墨書かわらけ(かわらけ経)は12世紀後半代である。
以上のことから、奥州藤原氏はその初代清衡の治世から経塚を築造し、三代秀衡に至ったことがわかる。
複数の塚の中には築造の時期を知ることができる例がある。丹内山神社経塚の西経塚は12世紀後半代、東経塚は12世紀末~13世紀初期である。山屋館経塚の4基は、2基を単位とした新旧関係にあり、12世紀中葉~末葉に築かれたと推定された。

岩手の経塚群
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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