館長室から

#58 睦月 岩手の経塚群
―12世紀、奥州藤原氏時代を中心に⑨―

2019.1.1

◇経塚造営の背景

奥州藤原氏一族の経塚造営への熱い思いを思わせる多くの例がある。

 

▼まず、金鶏山経塚である。金鶏山は「都市平泉」のほぼ中央に位置しており、平泉のランドマーク的なまであったと思われ、複数の経塚が築かれた。ここから12世紀初期の渥美袈裟襷文壺(あつみ・けさだすきもんこ)が出土しており、初代清衡の時代に造営が開始されたことがわかる。
なお、故大矢邦宣(おおや・くにのり)氏は、経塚の山金鶏山と対になるのが達谷窟であり、その顔面大仏は弥勒菩薩(従来は対日如来)ではないかと述べている。
▼その清衡が平泉進出前に居館としていたと伝えられる江刺郡豊田舘跡より、11世紀後半~12世紀初期の白磁四耳壺が出土して、伝承の確かさと経塚の存在を示している。
▼また、清衡発願の「紺紙金銀字交書一切経」の写経所である「江刺郡益澤院(ますざわいん)」の推定値である江刺区増沢に、12世紀後半の渥美壺を出土した万松寺経塚が所在し、これも伝承を裏付けている。
▼高倉東ノ森経塚と鹿之畑経塚のある旧花泉町は、『台記』(たいき、藤原頼長(よりなが)の日記、1136~55年)に見える摂関家藤原氏の荘園「高鞍荘(たかくらのしょう)」の所在地であり、荘園管理者であった奥州藤原氏との関連を物語る。
▼隣県ではあるが、摂関家領の本良荘(もとよしのしょう)に該当する宮城県本吉郡に田束山(たつがねさん)経塚が所在し、「本吉冠者(もとよしかじゃ)高衡(たかひら)、秀衡の四男」が配置されていたのも同様である。
▼奥州藤原氏の一族である樋爪太郎(ひづめのたろう)俊衡(としひら)入道が厚く法華経を信仰していたので旧領を安堵されたと『吾妻鏡』に出ている。その信仰の強さは、比詰館跡・山屋館跡経塚・新山神社境内、城内山頂遺跡など、紫波郡内に多くの経塚が存在することからもわかる。あたかも、紫波郡の四至を結界するかのような配置である。
▼『吾妻鏡』文治五年(1989)九月廿三日の部分に、「初代清衡が奥羽両国の一万余の村に寺院を建てた」と見えるが、寺院や神社を背景にした経塚も多い。例えば、高勝寺跡、丹内山神社経塚と大聖寺、三熊野毘沙門山経塚群と成島毘沙門堂、土踏まずの丘経塚と天台寺、玉山館経塚と東楽寺、新山神社経塚と新山寺、高松寺経塚群と高松寺、高倉東ノ森経塚と医王寺、新山神社境内などにその可能性があろう。

 

◇平安物と経塚の分布

現在のところ、岩手県内には平安時代の仏像を安置する寺院・神社は39カ所確認されている。平安仏と経塚の分布はよく似ている。仏像から見ると、仏教の普及には、11世紀の安倍氏時代と12世紀の奥州藤原氏時代に画期があったことを示している。
仏像は、北上川東岸、北上山地の中部から南部に高い密度で分布し、盛岡以北には仏像・経塚ともに少ない。
北上川上・中流域では、盛岡市から紫波町にかけての地域が経塚に比し仏像が少ない。北上川中流域とその東方の猿ヶ石川流域には仏像・経塚共に多い。花巻市や旧東和町以南の旧前沢町までの地域では、北上川西岸に仏像が分布しない。平泉の東方の東磐井郡には仏像が5カ所存在するのに対して経塚が少ない。
現状では、これらが歴史の実像を示しているとは考えられない。各地域の様相を詳細に把握したうえで、その背景などを考える必要がある。

岩手の経塚群
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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