館長室から

#59 如月 岩手の経塚群
―12世紀、奥州藤原氏時代を中心に⑩―

2019.2.1

◇旧西磐井郡の経塚

▼高倉山東の森(たかくらやま・ひがしのもり)経塚―旧花泉町永井字薬師沢。沖積地に面した標高133.7㍍の丘陵部に立地。北西に栗駒山、北に束稲山を望む。ここは摂関家藤原氏の荘園「高鞍庄(たかくらのしょう)」の地であり、現地管理者が奥州藤原氏であった。
1954年(昭和29)開墾中に地下60㌢より常滑(とこなめ)産(以下、産を省略)三筋文壺(さんきんもんこ)・2点が出土。12世紀後半から末。高倉山南麓の医王寺(いおうじ、慈覚大師開基という)と関係するとの説がある。

▼鹿之畑(かのはた)経塚―旧花泉町日形字下通。北上川沿いの沖積地に臨む標高50㍍の丘陵頂部に立地。 南北に2基が並ぶ。1921年(大正10)頃に掘り出されたが、訳あって一旦埋め戻され、1950年(昭和25)再度掘り出されて現在に至る。
南側の塚は下底部直径6.7㍍、高さ0.6㍍で常滑三筋文壺・1点出土。12世紀後半~末。西方約8㌔に位置する金沢大門(かざわ・だいもん)は平泉の南の大門との伝承があり、12世紀末の仏像群がある。

▼金鶏山(きんけいさん)経塚―平泉町平泉字花立。平泉町の現市街地のやや西方に入りする標高98㍍の丘陵の頂部に立地。1930年(昭和5)の九月~十月にかけて発掘された。現在残存する塚は直径14㍍、高さ、1.32㍍の円形。
出土品は銅製経筒・渥美袈裟襷文壺(あつみ・けさだすきもんこ、12世紀前半)・平瓦・土製皿各1点、常滑甕(かめ)4点(12世紀後半)、碗残片・木材残片・漆剥落片・鉄鏃(てつぞく)残片・刀身(とうしん)残欠・砂金が東京国立博物館に、常滑三筋文壺・常滑甕各1点が毛越寺千手院(せんじゅいん)に保管されている。また、金鶏山経塚出土よされる銅製経筒と陶製経筒外容器各1点、が奈良国立博物館に保管されている。
なお、当時の写真を見ると、銅製経筒3点、石製経筒外容器1点、壺と甕8点、宝玉(ほうぎょく)1点、刀子(とうす)12点が写っている。
経筒の数からしても、複数の経塚が存在したのであろう。即ち、金鶏山は平泉の象徴でもある経塚の山であった。
菅野成寬(かんの・せいかん)氏は日想観(にっそうかん)の視点から金鶏山を無量光院とセットになるとした。しかし、12世紀前半の渥美袈裟襷文壺が出土していることから、初代清衡の時代から経塚が営まれていたことは確実である。
一方、故大矢邦宣(おおや・くにのり)氏は金鶏山経塚と達谷窟とセットになるとし、達谷窟の顔面大仏は12世紀代のもので、大日如来ではなく、弥勒菩薩ではないか、と推定した。平泉に懸る江戸時代の絵図を見ると、顔面大仏の全身像が描かれているが、それを見ると、その印は大日如来のものではないことがわかる。
経塚は、釈尊入滅後、56億7千万年の後に弥勒菩薩が下生して衆生を済度してくれるまで経典を保存するためのものであったことよりの推定である。

▼鈴懸けの森(すずかけのもり)経塚―平泉町平泉字大沢。毛越寺寺背後の標高120㍍の山地頂部に立地。塚の断面に石室が露出している。
出土遺物は不明であるが、12世紀代のものであろう。

岩手の経塚群
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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