館長室から

#61 卯月 岩手の経塚群
―12世紀、奥州藤原氏時代を中心に⑫―

2019.4.1

◇旧江刺市(続)

▼高勝寺跡(仮読み、こうしょうじ)跡―旧江刺市稲瀬石関(いしぜき)の熊野神社境内所在。口内(くちない)川の西岸の山地裾部に立地、標高80㍍、沖積地との比高10㍍前後。

大正年間、或いは昭和初期に地元民が掘り出したという、蓋を伴う石櫃の内面に「長承四年(ちょうしょう、1135)歳次(さいじ)乙卯(きのと・う)二月七日辛亥(かのと・い)」との文字が印刻(いんこく)されていた。また骨灰(こっぱい)と鉄製の小刀が収められていた。

高勝寺については、その読みを含めて一切不明である。奥州藤原氏の興隆期に、江刺郡のこの地に高勝寺という寺院が存在し、その寺が経塚を築いた、或いはその寺の僧侶を葬った、ということであろうか。

 

◇北上市

▼南部工業団地K区(なんぶこうぎょうだんち・ケーく)経塚―北上市相去町。北上川西岸の河岸段丘低位面の縁に立地し、標高103㍍、東方の沖積平野との比高約50㍍。7基の塚が周溝(しゅうこう)の一部を共通する状態で、ほぼ一直線に連結していた。

塚は隅丸方形(すみまる・ほうけい)で、直径は5~8㍍、高さはあまりない。残存した1基の中央部に石が集積し、その下部は窪んでいた。周溝などから渥美壺の破片が出土。復元したところ、12世紀半~後半代の渥美の壺で、肩部に「八」の字状の刻文(こくもん)があり、窯印と思われる。

▼(水押(みずおし))新山(にいやま)神社(水押西Ⅰ・Ⅱ遺跡)―旧江刺郡水押村、現北上市口内町水押に所在。舌状に張り出した丘陵上の標高170㍍地点に立地。前面の水田面との比高20㍍。

1963年(昭和38)以前に埋経容器の壺が出土。「新山神社の裏の老松が台風で倒れた時、土師質(はじしつ)の骨壺とともに石組の間から出土」したという。12世紀後半の常滑の三筋文壺である。なお、神社に安置されている十一面観音立像は、焼損しているが12世紀の作である。

 

◇旧和賀郡

▼丹内山神社(たんないさんじんじゃ)経塚―旧東和賀町谷内。神社背後の標高300㍍前後の尾根元先端部に立地、前面の沖積地との比高約150㍍。1959年(昭和34)と翌年に発掘された。

2基の経塚が東西に並んでいる。東経塚は底石と側石を用いて石室を造り、石製経筒(せきせい・きょうづつ)を納め、蓋石(ふたいし)を置いたと思われる。また、中国銭18枚を副葬していた。それらは、開元通宝(かいげん・つうほう、南唐、初鋳960年)、慶元(けいげん)通宝(南宋、1195年)の2枚以外は北宋銭である。12世紀末~13世紀初期の経塚。

西経塚は方形の石室を有し、三重の蓋石で覆われた内部から12世紀後半の白磁四耳壺が倒れた状態で発見された。その底部近くに発見された湖州鏡(こしゅうきょう、12世紀後半)は四耳壺の蓋と推定された。また、北宋銭1枚も出土。それは祥符元宝(しょうふ・げんぽう、北宋、1009年)である。12世紀後半の経塚である。

神社に残る棟札によると、かつては平安時代に創建された大聖寺という寺院で、観音堂や権現堂などがあったが、荒廃した。中世に再興され、成島(なりしま)毘沙門堂とともに霊場として信奉されてきた。

 

神社に伝わる木造十一面観音立像は11世紀から12世紀の作。古代寺院を背景として築かれた経塚か。なお、東西の経塚はいずれも岩手県指定史跡である。

岩手の経塚群
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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