館長室から

#62 皐月 岩手の経塚群
―12世紀、奥州藤原氏時代を中心に⑬―

2019.5.1

◇旧和賀郡(続)

▼三熊野(みくまの)神社毘沙門山(びしゃもんやま)経塚郡-旧東和町成島(なりしま)に鎮座する三熊野神社背後の山地頂部に立地。北経塚の標高約190㍍、前面の沖積地との比高は約90㍍。明治末期~大正初期に掘り出されたものか。

伊能嘉矩(いのう・かのり、現遠野市出身の人類学者・民俗学者、1867~1925)によると、塚は神社の北に3基、西南に1基あるとしたが、現存するのは北の3基のみ。

北経塚より銅製(どうせい)経筒・陶製(とうせい)経筒・石櫃(いしびつ、経筒外容器(がいようき))・草花蝶鳥鏡(そうか・ちょう・とり・きょう)・刀身(とうしん)・鉄鏃残欠(てつぞく・ざんけつ)・土製の皿、各1点が出土し、東京国立博物館所蔵。西南経塚より常滑三筋文壷と萩飛鳥鏡(はぎ・ひちょう・きょう)各1点が出土し、三熊野神社所蔵。いずれも12世紀後半代のもの。経筒や石櫃が存在することは、奥州藤原氏が正式の舞経方法を知っていたことを示す。

成島毘沙門堂は坂上田村麻呂創建との伝えがあり、又、嘉祥三年(かしょう、850)慈覚大師開基(かいき)ともされる。近世では成島寺が別当時(べっとうじ)、鎮守社が熊野神社とされた。

ここに安置されている伝(でん)吉祥天立像(国重要文化財)は平安前期、巨大な兜跋毘沙門天立像(同期)は平安中期、伝阿弥陀如来(本来は十一面観音)立像(県指定)は承徳二年(じょうとく、1098)(胎内銘(たいないめい))の作である。

 

▼真行寺(しんぎょうじ)経塚-旧東和町北小山田(きたいやまだ)に所在。添市(そいち)川北岸の低位の河岸段丘の縁に立地し、標高120㍍、前面の水田面との比高約20㍍である。

1971年(昭和46)田中喜多美(たなか・きたみ、雫石町出身の歴史家)氏によって掘り出され、「半ば崩されて多数積み重ねられた小石の間から、経を収めたと知られる細長い壺が出土した」という。12世紀後半の常滑産の三筋文壺で、塚は残存しないが、恐らく、経塚が存在したのであろう。

 

猿ヶ石川沿いの旧東和町内に奥州藤原氏時代の遺跡が多い理由は、この地が、北上川流域と三陸沿岸地域を結ぶ東西交通路沿いに所在していることによるものであろう。

 

◇花巻市

▼高松山(たかまつやま)経塚群(従来の岩根神社経塚)-花巻市高松の、標高261㍍前後の山地に所在。

1912年(大正元年)頃発見されたか。小笠原謙吉(おがさわら・けんきち、紫波郡出身の歴史家)は、「綱森の石積塚を近年発掘したところ、最も新しい時代の祝部土器(いわいべ・どき、須恵器)が出土した」と記している。

高松山一帯が遺跡の範囲とされ、岩根(いわね)神社周辺に経塚が知られていた。

小原無学(おばら・むがく、東和町出身の歴史家)は、「男松女松の一字一石経塚から白磁の瓶(かめ)、綱森(つなもり)から花瓶(かびん、けびょう?)形の陶器、鉞塚(まさかりづか)から花瓶形と鉢形の陶器が出た、と記している。高松山山頂に塚はないが、綱森(213㍍)の頂部に方形の塚が2基存在する。

既述の小原によると、「経塚より白磁四耳壺、綱森より常滑三筋文壺、鉞塚より常滑産の甕と渥美産の片口鉢」の各1点が出土した。いずれも12世紀後半のものである。

岩根神社の場所にはかつて高松寺が存在したという。創建年代などは不明だが、真言宗寺院であったという。

岩手の経塚群
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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