館長室から

#63 水無月 岩手の経塚群
―12世紀、奥州藤原氏時代を中心に⑭―

2019.6.6

◇紫波郡

▼伝比爪館(でん・ひづめだて)跡-紫波町北日詰(きたひづめ)に所在。北上川西岸の低位の河岸段丘の縁に立地、標高98㍍、沖積平地との比高約4㍍。

1934年(昭和9)、五郎沼(ごろうぬま)の南東部における郷倉(ごうそう)建設の際に経塚が発見され、「地下数尺の所に地盤を固めて周囲に石を置き、中央には経瓶(きょうかめ)を据え、素焼きと青銅の二重経筒に経文が納めてあり、短刀も出土した。

また石槨(せきかく)様のものが有り、葺石(ふきいし)も伴っていた」という。主体部の石室の中に納められていたことか。現在、赤石(あかいし)小学校に保管されている珠洲産の壺がこの経瓶であろう。珠洲Ⅰ期、12世紀第4四半期の作。

なお、藤原氏一族の比爪(樋爪)氏の居館である比爪館跡は赤石小学校周辺と五郎沼を含む広大な範囲であったろう。大正年間に、五郎沼の底より「かわらけ」が出土した由であり、奥州藤原氏時代からの沼(池)である。

 

▼新山神社境内(にいやまじんじゃ・けいだい)遺跡-紫波町土館(つちだて)の山地中腹、標高515㍍に立地、眼下の水田面との比高約390㍍である。

1995年(昭和30)頃、新山神社奥宮西方の道路工事の際に12世紀後半代の常滑三筋文壺が出土、経塚が存在したと推定された。

境内の別地点より、平安時代末期~鎌倉時代の和鏡(わきょう)や懸仏(かけぼとけ)が出土しており、この地が平安時代以降山岳宗教の場であったと思われる。紫波郡の西端部に位置し、郡を結界するかのようである。

 

▼山屋館(やまやだて)経塚-紫波町山屋字山口(やまぐち)の山地に立地。標高430㍍、麓の水田面との比高130㍍。

4基の塚があり、それぞれの石槨(せきかく)を主体とし、積石や葺石(ふきいし)が伴う。1号~3号までは盗掘(とうくつ)されており、4号塚のみが完存。

出土遺物は1号より珠洲系の波状紋四耳壺、4号より常滑三筋文壺、3号より銅板で縁取りした箱の蓋の一部である。珠洲系の壺は珠洲1期で12世紀後半、三筋文壺は12世紀前半~中葉の作で、朱色のついた石を蓋石としていた。

4基の塚には新旧関係があり、12世紀中葉~12世紀第4四半期までの時期に築かれたと思われる。金に恵まれた紫波郡の東の端を結界するかのようである。

 

▼城内山頂(じょうない・さんちょう)遺跡-矢巾町煙山(けむやま)に所在。奥羽山脈の東麓部の城山内(328㍍)に立地し、平野部との比高178㍍。

1985年(昭和60)、展望台建設工事の際に発見された。その状況は、「岩盤の上に、概ね隅丸方形(すみまる・ほうけい)の一辺約21㌢、深さ22㌢以上の穴の中に壺が納まっていたが、上半は掘削により破壊されていた。壺と穴の僅かな隙間には平坦な石が楔状に入っていた。壺内部の土は既に無く、内容物の有無は不明。また、穴の周辺出土の鉄釘には木質が付着していた」という。

出土した壺は渥美産の袈裟襷文壺(けさだすきもん・こ)で12世紀半ばの作。

 

城内周辺には、平安時代初期の作とされる銅製地蔵菩薩の出土地や、平安時代の不動明王を所蔵する寺があるほか、「藤の坊」「杉ノ坊」「油田」という地名が残存し、平安時代の寺院「伝法寺(でんぽうじ)」跡と推定される地が所在する。

岩手の経塚群
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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