館長室から

#67 神無月 平泉遺跡群出土の重要文化財再見②

2019.10.1

以下には、遺物の種類別に順に紹介します。

 

◆磁器・陶器・土器・土製品①

具体的な内容は、かわらけ、墨書(ぼくしょ)土器・刻書(こくしょ)土器(文字が墨で書かれたり刻まれた土器)、鉢、鍋、瓦器(がき)、国産陶器、中国産陶磁器、朝鮮産陶磁器、土製円盤、土製丸玉(まるだま)、土錘(どすい)、鞴羽口(ふいご・はぐち)坩堝(るつぼ)、陶硯(とうけん)、鋳形、土馬(どば)、瓦、塼(せん)、土壁(つちかべ)、などです。

 容器や装身具などの小さいものから、建築部材等の大型のものまであります。文字を記した土器や鞴羽口・鋳型・坩堝などは、その遺跡、さらには平泉という地の性格・機能を示唆するものです。

 

▽かわらけ

素焼きの土器(小皿・盃・鉢形など、大小の2種がある)で、宴席で用いられ、一回使い捨てとされました。恐らく主従関係確認のための宴席で用いられた土器と思われ、柳之御所遺跡(政庁「平泉舘(ひらいずみのたち)」の跡)など平泉拠点地区(衣川・北上川・太田川で囲まれた地、現在の平泉町市街地に一致)の遺跡より大量に出土し、周辺の遺跡からは少ない。つまり、極めて強い政治性を帯びた土器と思われます。中でも、柳之御所遺跡よりは、総計20トン近い出土があったといわれています。
12世紀の初めにはロクロを使用したかわらけでしたが、12世紀の半ば以降はロクロを使用しない「手づくねかわらけ」が主になります。「手づくねかわらけ」は、京都の後白河法皇関連の遺跡より出土するものに酷似しており、京都との強い結びつきを反映したものとされています。同様に、平泉以外の東北各地から出土する「かわらけ」の背景にも、平泉と地方の間の強い政治性があるとみなす必要があります。
例えば、平泉在住の考古学者の八重樫忠朗(やえがし・ただお)氏の研究によると、東北地方各地より出土する「かわらけ」には、平泉に酷似するものと、平泉にはあまり似ておらず、地域性の強いものの2種があるという。前者は多賀城以北の宮城県北部~岩手県~秋田県東北部~津軽平野(青森県西半部)に多く分布し、後者は山形県や福島県など、平泉からは遠隔の地に多い傾向があるという。
源頼朝の平泉攻めの際の地方武士団の動向とも重ね合わせると、前者の地域に奥州藤原氏の累代の家臣的な武士団が居住し、後者には、比較的新しく家臣となった、「新参者・外様的」な家臣が居住していた可能性はないか、と述べている。

 

鎌倉時代初期の武士団の主従関係には2種の類型があることを岡田清一(おかだ・せいいち)氏が触れておられる(『鎌倉幕府と東国』)。即ち、家人(けにん)と家礼(かれい・けらい)の別があり、前者は譜代の家臣、後者は比較的新しい新参者的な家臣という。
岡田氏は、この別が、柳之御所遺跡出土の「人々給絹日記(ひとびと・きゅうけん・にっき)」と命名された墨書折敷(ぼくしょ・おしき)に出て来る、人物名への「殿」の有無と関連するのではないかとも推定している。殿の無いものが「家人」、「殿」のある者が「家礼」の可能性である。考古学的遺物が、政治的テーマの資料にも成り得る可能性があり、興味深い。

 

なお、白鳥館遺跡の西側平坦部に「手づくねかわらけ」を焼いた窯が確認されています。

平泉遺跡群出土の重要文化財再見
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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