館長室から

#70 睦月 平泉遺跡群出土の重要文化財再見⑤

2020.1.4

◆文字資料①

木の板に文字を書いた木簡(もっかん)、折敷の板に文字や絵をかいた墨書(ぼくしょ)折敷・墨画(ぼくが)折敷、土器に文字を書いた墨書土器、呪(まじな)いの札である呪符(じゅふ)、将棋の駒、銅製の印章など、文字が残る多くの遺物です。「文字」は本来、支配者の重要な道具であり、平泉遺跡群から多く出土するのは当然です。
なお、文字を書く道具である硯(すずり)は石硯(せきけん)と陶硯(とうけん)が、また、筆は穂先(ほさき)が出土しています。

 

▽木簡
平泉町志羅山(しらやま)遺跡の道路側溝跡出土の、カタカナが記された273×51×4.5㎜のスギ材で、上下両端に1~2㎜幅の剥ぎ取り面、下端から2.4㎜に直径2㎜穿孔部が2ヶ所あります。即ち、文字は次の通り。

トヤカサキノニヨホウキヤウノイシヲハ
ケチエンニモタセタマフヘシ イツカノ(穿孔)
ヒヨリシウハチニチニウツシタマフナリ(穿孔)
これを読み下しますと、
鳥谷ヶ崎の如法経の石をば
結縁に持たせ給うべし 五日の
日より十八日に写つ増し給うなり
となります。

鳥谷ヶ崎(とやがさき)とは、平泉町内に鳥谷ヶ崎坊(とやがさきぼう)という塔頭(たっちゅう)があったのでその辺りか、或いは平泉の北に隣接する旧胆沢郡前沢(まえさわ)町の塔ヶ崎(とうがさき)か。
如法経の石とは如法経(にょほうぎょう)(法華経(ほけきょう)のこと)を石に記した礫石経(れきせきぎょう)でしょう。
即ち、「鳥谷ヶ崎に経塚を築くことに志を同じくする皆さん、結縁に礫石経を持ってきてください。五日の日から十八日までにお写し増しください」という趣旨の回覧板的な木簡と思われます。
この木簡は、奥州藤原氏時代の経塚には、圧倒的多数を占める紙本経(しほんぎょう、紙の経巻)を埋納した塚に加えて、少数ではあるが礫石経(れきせきぎょう)を埋納した塚も存在したことを示唆しています。

 

▼参考―経塚(きょうづか)

日本では平安時代後期の永承(えいしょう)七年(1052)から末法(まっぽう)の世(末世(まっせ))に入ると信じられていました。そして釋迦の死後、56億6千万年の後に、弥勒菩薩(みろくぼさつ)が下生(げしょう)して衆生(しゅじょう、人々)を済度(さいど、救う)してくれるまで、経典を保存するために築かれたのが経塚でした。あの藤原道長(ふじわらのみちなが、966~1027)が寛弘(かんこう)四年(1007)に奈良の金峯山(きんぷせん)に埋納したのが最初の経塚といわれます。
12世紀の奥州藤原氏もそれを信じ、東北地方各地、特に岩手県地方には多くの経塚(30ヶ所以上)を築きました。
奥州藤原氏の経塚にはいくつかの独自性があります。まず、お経の巻物は経筒(きょうづつ)という専用の容器に納められ、次に一回り大きな容器に納めてから塚の中央の地下に埋置されるのが正式の方法ですが、奥州藤原氏は、経筒を省略し、お経の巻物を陶磁器の壺や甕などに直接納めた例が多数を占めています。
また、旧前沢町の寺ノ上(てらのうえ)経塚では、巻物を入れた壺の周囲に、さらに、法華経を墨書した「かわらけ」を詰めていました。これは全国的にも稀有の例といわれます。奥州藤原氏の独自性の一つです。

平泉遺跡群出土の重要文化財再見
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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