館長室から

#73 卯月 平泉遺跡群の重要文化財再見⑧

2020.4.1

◆文字資料③

▽墨書土器(ぼくしょ・どき)①

当時の宴席で用いられた「かわらけ」に墨で文字を書いたものが複数出土しています。宴席や儀式の際の産物等があるのでしょうか。
柳之御所遺跡の井戸跡より出た直径8㎝の小型品の外面に縦書きされた文字を佐藤嘉広(さとう・よしひろ)氏が検討しています。即ち、
「うへ くれ   (上  紅)
 なか すわう (中  蘇芳)
 やまふき   (やまぶき) 」

 

佐藤氏は、これらの解釈には二つの可能性があるとしています。

第1案―衣服の重(襲)色目(かさね・いろめ)を記したもの。「うへ」「なか」を上着、中着ととらえ、それぞれの色を書き付けたものではないか。「うへ」には上着・表面・上の袴などの意味があるが、多用されるのは上着の意である。「なか」は中の衣と中陪(なかべ)(公家などの装束で、表地と裏地の間に加えられた多彩な美しさを表した絹地)の可能性がある。単純な重ね着の色目と考えた場合は中の衣の意、上着との襲色目とした場合は中陪となる。

ちなみに、紅は袍(ほう)・狩衣(かりぎぬ)・直垂(ひたたれ)・袴(はかま)・裳(も)・大口(おおぐち)などに広く用いられ、蘇芳は正月から四月、八月から十二月に多い、山吹は冬から春へ男女とも用いた、特に春の料として愛好された、という。

 

第2案―色の嗜好を記したもの。「うへ」「なか」を上等、中等ととらえ、当時の色の嗜好を書いたものではないか。

よく知られている後白河法皇(ごしらかわ・ほうおう)が編纂したとされる今様(いまよう)歌謡集『梁塵秘抄(りょうじん・ひしょう)巻二 四三六』に「武者の好むもの、紺よ紅、山吹、濃き蘇芳、茜の寄生木(やどりぎ)の摺り、良き弓胡簶(ころく)馬鞍太刀腰刀、鎧冑に、脇楯(わきたて)籠手(こて)具して・・・」と謡われているものである。紅色を上等の色、蘇芳色、山吹色を中等の色とする内容である」と推定している。

 

▽墨書土器②

同じく「かわらけ」の破片の外面に、
「 ひ   良(等) 泉 」
と記されたものが出土している。これを「平泉」と読んでよければ、地元の史料に出てきた「平泉」の地名として極めて珍しいといえます。

『吾妻鑑(あずまかがみ)』文治(ぶんじ)五年(1189)九月二十三日の部分に、
「清衡は継父武貞(たけさだ)、荒河太郎(あらかわ・たろう)と号す。鎮守府将軍武則(たけのり)の子。の卒去(そっきょ)後、奥六郡、伊沢・和賀・江刺・稗抜・志波・岩井郡、を伝領(でんりょう)し、去る康保(こうほう)年中、江刺郡豊田舘(とよたのたち)を岩井郡平泉へ移し宿館(しゅくかん)となす。三十三年を経て卒去す」と記してあります。ただし、岩井郡は岩手郡の誤記、康保は10世紀の年号なので、これも誤記、正しくは嘉保(かほう)(1094~96)か康和(こうわ)(1099~1104)とされます。

平泉の地に移った理由は、平泉が文字通り奥羽地方の中央に位置していたことと、王城は四神相応の地(しじん・そうおうのち)に構えよという中国の思想に適っていたことにあります。東に青竜(せいりょう)(川)が、西に白虎(びゃっこ)(街道)、南に朱雀(すざく)(池)、北に玄武(げんぶ)(山)が位置する地のことであり、平泉は正にそれに合致する地形でした。

平泉遺跡群出土の重要文化財再見
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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