館長室から

#75 水無月 平泉遺跡群の重要文化財再見⑩

2020.6.1

◆絵画資料(墨画(ぼくが)折敷)①

柳之御所遺跡より、折敷の板に墨で絵を描いたものが数点出土しています。動物や植物、建物の絵などがありますが、その一部を紹介します。なお、どの絵も、当時の都の京都から多くの人々が「平泉」の地にやってきていたことを示唆しており、「平泉」が活気に満ちた「町(都市)」であったことを物語っています。

 

▽動植物墨画(どうしょくぶつ・ぼくが)折敷

柳之御所遺跡の堀外部地区より出土したもので、秋草と鹿の後ろ脚を描いたものが各1点です。どちらも『鳥獣人物戯画(ちょうじゅう・じんぶつ・ぎが)』を思い出させる、極めて書き慣れた絵です。

 

▽建物墨画(たてもの)折敷

いわゆる寝殿造(しんでん・づく)りの建物の一部である対屋(たいのや)風のものが鳥観図(ちょうかんず)的に描かれています。これに対して異なる推定が行われています

 

*川本重雄(かわもと・しげお)氏(北海道工業大学)説

―平泉に実在した寝殿造り風の建物をスケッチしたものと推定されました。魅力的な説ですが、発掘調査では、身舎(おもや)と対屋を伴う廊(ろう)の組み合わせという典型的な寝殿造り風の建物跡は未だ確認されていないことが最大の難点です。

 

*上原真人(うえはら・まさと)氏(京都大学)説―この板に描かれた建物に酷似する建物の図が、京都の宇治平等院鳳凰堂(うじ・びょうどういん・ほうおうどう)北面側壁図(ほくめん・そくへきず)(中品中生図(ちゅうぼん・ちゅうせいず)にあることから、平泉に実在した建物をスケッチしたものではないとしました。

そして、「平泉の町造りのために京都から招かれた多数の職人、例えば絵師(えし)、大工(だいく)、鋳物師(いもじ)、染師(そめし)、木地師(きじし)、塗師(ぬりし)等々の中の一人で、鳳凰堂の壁画を見知っていた人物が、建物建築上の必要性から、或いは、宴席などで自らの知識と技量を誇らしげに披露したりするために描いたのではないか」とも推定されました。

三代秀衡が建立した無量光院(むりょうこういん)は宇治平等院鳳凰堂を模したということが『吾妻鑑』に明記されていますので、この推定には強い妥当性がありましょう。

 

次回に紹介する絵にも関連しますので、『鳥獣人物戯画』について、簡単にふれておきます。「京都の高山寺(こうざんじ)(京都市右京区にある真言系の寺院)に伝わる白描(はくびょう)(毛筆の墨の線のみでかんせいされた絵)の絵巻物、4巻。12世紀の作とされる。後白河法皇が(ごしらかわ・ほうおう)が愛玩したという。

猴・兎・蛙などの遊びを擬人的に描いた甲巻と、動物の生態を描いた乙巻は覚猷(かくゆう)(平安後期の天台座主・画僧。源隆国(みなもとのたかくに)の子。四天王寺(してんのうじ)別当・園城寺(おんじょうじ)長吏(ちょうり)などを歴任し、鳥羽上皇の厚遇を得て、鳥羽離宮内の証金剛院(しょう・こんごういん)に住み、鳥羽僧正と称された。仏教図像の研究をし、また、風刺的な戯画にも得意であった)の筆と伝えられるが、確かな根拠はない。他に、勝負ごとに興じる人間などを描く丙巻、曲芸などの風俗を滑稽に描いた丁巻からなる。」

平泉遺跡群出土の重要文化財再見
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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