#20 師走 五位塚について(2)
2025年12月1日
〇黒澤喜一郎江刺郡長と小笠原謙吉による五位塚論争について
大正14(1925)年5月18日付けの旧岩手日報朝刊(以下「旧」は省略)に、黒澤喜一郎江刺郡長が「五位塚古墳群」を発見したとの記事が掲載されます。この内容やその後の経過については小玉克幸氏(奥州市地域文化財研究所)が胆江日日新聞紙上で令和5年1月から3月に掲載された「特別寄稿 江刺金札米を生み出した人々」の中で「最後の江刺郡長 黒澤喜一郎氏」と題して詳しい内容を投稿されていますので、これを参考にしつつ概略を述べてみたいと思います。
冒頭の新聞記事は【岩谷堂町大字餅田五位塚高水寺付近で 千年前の大古墳二十余基を発見】【藤原三代栄華以前の東北文化の中心か】という大々的な見出しの後に、五位塚にて「二十いくつかの大古墳(形状四角形)が連連と蜂の巣状になって連なっていた。」と報告したうえで、周辺に“高水寺”や“陣ケ岡”という地名が存在することを踏まえ「史蹟名勝調査員の小笠原迷宮君が高水寺は紫波郡にあり、陣ケ岡も同郡にあると岩手県史に書いてありますが、それはまったくわたしには解釈に苦しむ次第です。」と続けています。更に「同所は平泉全盛期以前における東北文化の中心地であろうと思います。」と結論付けています。
この記事で、迷宮君というのは小笠原謙吉の別名で、彼は当時“岩手県史蹟名勝天然記念物調査会”の委員でした。同会の調査報告第二号(大正十一年度調査)にて、小笠原は江刺郡の陣ケ岡と高水寺跡を『吾妻鏡』に記載された地名と同一であるという説は失考(間違った考え)であるとしていますが、この点への反論も含めた黒澤郡長の論述ということになります。
これに対して、小笠原謙吉は同年5月27日付けの岩手日報に【江刺郡長の話に就て 陣ケ岡及高水寺址の私見】と題して大々的に反論を行います。小笠原は“陣ケ岡”について『吾妻鏡』に所在地が“志波郡”と書かれていることをはじめ、『大日本地名辞書』・『仙台名蹟志』・『封内風土記』などの文献を引いて黒澤郡長の説を否定します。さらに「わたしは一昨年、実際に五位塚古墳を調査している」「近く羽田村の古墳を調査することになって居るから、そのせつは黒澤君に面接して詳細其高見を敲きたいつもりである」という意思表示をしています。
小笠原は当時五位塚古墳群に最も精通した学者であり、小笠原にこれだけ論破されると黒澤郡長も白旗を上げる所かと思いきや、大々的に反論を行います。
黒澤郡長は同年5月30日付けの岩手日報夕刊に掲載された【岩谷堂古墳群その他につき】の中で小笠原が五位塚古墳群を報告した論文(『調査会報告』第三号、前回のコラム参照)に触れた後、同古墳の総数は小笠原が報告した6基ではなく、実際は20基あることを指摘しています。また、『陸奥話記』に郡名の誤記があることから、『吾妻鑑』も同様であった可能性を指摘し、「他の異論でも愚論でも誤記でも耳を貸して研究資料の一つでも多く発見して学会に貢献せられる事を望む」としています。
続く同年6月5日付けの岩手日報朝刊に掲載された【江刺郡史蹟発見と奥羽史講座開放 喜多博士調査 史会の大疑問】という記事の中で五位塚の古墳総数はさらに増えて35基とされています。また、同月2日に調査書を喜多貞吉博士と菅野義之助岩手県史蹟名勝天然記念物調査会委員に見せ、「奈良時代から平安時代のものだろうと予想されるので、同年7月初旬に菅野氏や小田島祿郎氏らが予備調査を行い」、やがて「保存地に編入」される予定であることが記されています。
この後、岩手日報紙上には同年8月に江刺郡岩谷堂において開催される「奥羽史講習会」の記事が度々掲載されています。小玉氏は黒澤郡長の仕掛けた小笠原との紙上論争は「奥羽史講習会」開催に向けたデモンストレーションであった旨の解説をされていますが、私もこれと同意見です。
実は、この論争の最中である同年6月30日には黒澤郡長が巻末に跋文を寄せた『江刺郡志』が刊行されます。同書中で江刺郡内に所在する“陣ケ岡”や“高水寺址”について、『吾妻鑑』に記された地名であるという説を「今之を採らず」と明確に否定しています。黒澤郡長は同書の発行人ですし、ここまで目を通していたかもしれません。少なくとも『江刺郡志』編纂の関係者から内容を聴くことはできた筈です。従って、この五位塚をめぐる論争は学術論争としてではなく、黒澤郡長によって「奥羽史講習会」をPRするために敢えて行われた可能性は否定できないと思われます。
写真1 江刺郡志01
写真2 江刺郡志02
髙橋憲太郎(たかはしけんたろう)
1958年、水沢市(現奥州市)に生まれる。
1977年、岩手大学教育学部に入学し、岩手大学考古学研究会に入会後、岩手県教育委員会の西田遺跡資料整理作業や盛岡市教育委員会の志波城跡(太田方八丁遺跡)・大館町遺跡・柿ノ木平遺跡等の発掘調査や整理作業に参加する。
1981年、大学卒業後、盛岡市教育委員会(非常勤職員)・宮古市教育委員会(1984年正職員)に勤務。特に宮古市では崎山貝塚の確認調査や国史跡指定業務等に従事した。この間文化課長・崎山貝塚縄文の森ミュージアム館長・北上山地民俗資料館長等を歴任。
退職後の2020年、奥州市に帰り教育委員会にて文化財専門員(会計年度任用職員)として埋蔵文化財業務等に対応。
2021年、岩手県立大学総合政策学部非常勤講師。
2024年、えさし郷土文化館長就任。
