常設展示

当館の常設展示施設は、「センター棟(農業紹介ホール)」「第一展示室(奥の院)」で構成されています。
江刺地方の歴史・文化と地域産業、連綿と培われてきた祈りの伝統を、豊富な実物資料や復元資料を通じて楽しみながら学ぶことができます。

センター棟(農業紹介ホール)
江刺地方の文化と産業

狩猟から稲作へ

氷河期が終わり気候も温暖となった頃、土器が作られ、弓矢による狩猟が始まりました。このような生活が定着したのが縄文時代であり、約1万年以上にもおよぶ長大な文化です。北上川中流域に位置する江刺地方は、平野部では自然堤防が発達し、山間地から注ぐ豊富な水源にも恵まれていたことで、縄文時代の早い段階から集落が形成され、縄文人の多様な生活環境が展開されてきました。
稲作の技術とともに弥生時代が到来すると、江刺地方では主に平野部の低湿地が水田として利用されるようになり(兎Ⅱ遺跡・反町遺跡)、このことを端緒に北上川中流域では農耕社会が形成され、その成熟は次代の蝦夷たちの時代へと継続されたと考えられます。

阿原山高原

阿原山高原

律令国家を支えた農耕文化

全国の土地・人頭を直接的に支配する律令体制は大化の改新(645年)以降、次第に整備が進み、8世紀後半には胆沢・江刺地方にもその支配が及びます。蝦夷たちによる激しい抵抗によって、一時は朝廷軍を退けますが、延暦21年(802)に行政・軍事の拠点である鎮守府胆沢城(奥州市水沢区)の造営により、この地域も律令体制下に置かれました。「江刺郡」という正式な郡号が定められたのもこの頃と考えられます。
郡制施行によって各郡には役所である郡衙が設置され、租税などの管理を行いました。岩手県内では郡衙跡は未だに発見されていませんが、文書様木簡などが出土する遺跡がいくつかあり、その一つが江刺地方の沖積平野上に立地する落合Ⅱ遺跡です。この遺跡からは、平安時代前期の遺物が大量に出土しており、特に付札木簡とともに200点以上もの墨書土器や木製農具などが発見され、集散地的性格をもった古代の公的施設があった可能性が指摘されています。それと同時に江刺地方は農産物を生産・供給し、地域支配を支える豊かな農耕文化を社会基盤としていたことが推定されます。

平泉の世紀と江刺地方

平安時代中期頃から律令制度における地方支配は王朝的なものとなり、地方官人たちは農耕や特産物などによる豊かな社会基盤を背景に勢力を増大させていきます。奥六郡( 胆沢・江刺・和賀・稗貫・志和・岩手) を支配した安倍氏も、その時代に台頭した一族でしたが、前九年合戦において源氏・清原氏による連合軍との戦いの末に滅びます。この時、安倍氏方の将として戦った藤原経清の子、清衡は敵方であった清原氏の中で育ちますが、一族の内紛である後三年合戦で生き残り、清原氏の遺領を継ぐことになります。
清衡は江刺郡豊田館に居館を構えていましたが、後に岩井郡(磐井郡)平泉へ進出。奥州藤原氏初代当主として、平泉を拠点に「みちのくの時代」の基礎を築き上げました。

土偶 縄文時代後期 約3,500年前 大文字遺跡

土偶 縄文時代後期(約3,500 年前) 大文字遺跡

墨書土器 平安時代 10世紀 落合2遺跡

墨書土器 平安時代(10世紀) 落合Ⅱ遺跡

籾痕付着土器

籾痕付着土器
平安時代(10世紀)
松川下遺跡

木製農具

木製農具(鋤先の未製品)
平安時代(10世紀)
落合Ⅱ遺跡

仙台藩の穀倉地帯

文治5年(1189)の奥州合戦を経て、東北地方は鎌倉幕府の勢力下に組み入れられました。源頼朝の家臣である葛西清重が奥州総奉行になると、江刺郡には葛西氏の支族や家臣などが地頭として配置され、約400年もの間、葛西氏の治世が存続しました。
室町時代末期、豊臣秀吉による奥州仕置で葛西氏が改易されると、葛西氏の旧臣らが蜂起して勃発した葛西・大崎一揆の鎮定にあたった伊達政宗が江刺郡を治めることになります。
江戸時代、仙台藩領の北端中央に位置することとなった江刺郡は、藩境地域として伊達家の一門・一家・一族などが配置され、明治維新まで地域を治めました。また、江戸時代を通じ、藩財政を支える穀倉地帯として、新田開発や灌漑設備の設置などにも力が注がれました。

四季農耕図絵馬四季農耕図絵馬

四季農耕図絵馬(写真) 安政5年(1858) 前沢六日入 白山神社蔵

「江刺金札米」の源流と江刺地方の近代農業

古代より江刺地方で営まれてきた農業は、大正14年(1915)に江刺耕地整理組合が設立されて以降、土地改良事業が本格化し、現在の水田基盤が整備されました。また、同時期に江刺郡内に普及した米の新品種「陸羽百三十二号」が生産改善とともに東京への販路も確立され、後に「江刺金札米」として農家経済の安定化が図られることとなります。
陸羽百三十二号は大正10年(1921)に秋田県大曲の農林省農事試験場陸支場において、冷害に強い品種「愛国」と、病害に強い「亀の尾」とを組み合わせた人工交配によって誕生しました。
江刺地方では愛宕村の岩手県農事試験場胆江分場を介して全域に普及栽培が奨励され、栽培の実証では従来の品種に比べて病害が少なく、凶作でも減収せず豊凶の差が少ないことが確認され、品質も江刺郡内各地の俵米品評会において在来品種を圧倒する好成績を収めました。その結果を受けて江刺郡農会では東京深川市場での販売を企画。市場では他県産米を大きく上回る高値相場を獲得し、一躍江刺産米の名を全国に示しました。
その後、江刺郡農会は陸羽百三十二号に「江刺赤札米」の名称を付して販売しますが、江刺米の名声が高まるにつれ、類似品が続出したため、昭和5年(1930)からは岩手穀物検定所の認可を得て「江刺金札米」の名称で販売されることになりました。
江刺地方の農業は、近世までは稲作を中心に国内需要を賄ってきましたが、明治維新後は国策も相まってヨーロッパやアメリカへの輸出を睨んだ養蚕業が幅広く着手されるようになり、愛宕村には製糸工場「愛宕館」が設立され、大正2年(1913)まで創業しました。また、国内でも食物需要の多様化により、野菜園芸や果樹産業も手掛けられるようになり、販売用の露地野菜の栽培は昭和初期から取り組まれ、特に北上川流域の平野部で盛んに行われてきました。昭和20年代には多品目にわたって栽培面積が拡張し、昭和31年(1955)に施設園芸が開始されるなど、近代化が図られています。
りんご生産の導入は明治20年(1887)頃で、昭和初期までには生産者と栽培面積が増え、昭和10年代には生産者で組織された「りんご組合」によって共同選果や共同販売なども行われています。戦後は多品種の栽培が着手されるようになり、昭和33年(1958)からは開発直後の「ふじ」を導入。昭和50年代からは全国に先駆けて「わい化栽培」の普及を成功させるなど、現在も江刺地方は「江刺りんご」のブランドで知られるりんご産地として、高品質のりんご栽培が取り組まれています。

水田
水田地帯とカントリーエレベータ

水田地帯とカントリーエレベータ

岩手県立農事試験場胆江分場 大正時代岩手県立農事試験場胆江分場 大正時代

岩手県立農事試験場胆江分場 大正時代

江刺りんご

江刺りんご(サンふじ)

馬産地から和牛の郷へ

古来より江刺地方は馬産地として知られ、特産品あるいは農事を中心とした営みにおいて重要な役割を果たしてきました。
仙台藩では伊達政宗以来、歴代藩主によって馬産政策が講じられ、江戸時代を通じて藩政における重要政策の一つとして、江刺郡はじめ領内の馬匹数は増加の一途を辿りました。また、各地の馬市も活況を呈し、特に岩沼(名取郡)・国分町(仙台城下)・岩谷堂(江刺郡)は仙台藩三大馬市と称されていました。
近代以後は富国強兵や殖産興業などの国策によって広く一般農家でも馬が飼育されるようになります。江刺地方では馬といえば主に農耕馬でしたが、日清戦争後は軍馬の需要が拡大し、軍馬の
買い上げ価格も通常の倍以上となったことから、飼育農家は馬の育成に注力するようになり、種馬所(種付場)や馬市が新設されました。こうして江刺地方では農耕馬として使用しながら育成の上、軍馬買い上げを目指すのが主流となりました。なお、岩手県では明治時代から馬産改良のため外国の優良種が積極的に導入されており、大正時代には馬匹数も全国一位となり、名実ともに馬産王国の地位を築きました。
第二次世界大戦の敗戦により、馬産や馬の育成は軍馬の需要がなくなった上、大規模な土地改良が進む中で陰りをみせ、昭和30年代以降は農業機械の普及によって農耕馬は急激に減少。現在、飼育されている馬は祭礼のためのものがほとんどであり、事実上の農耕馬は昭和40年代に終焉を迎えたと考えられます。

戦後、江刺地方は米の収益だけではなく、他産業との兼業によって農家所得の向上を目指し、和牛、乳牛、豚、養鶏などを普及していました。その中心的な役割を担ったのは玉里村で、昭和34年(1959)に玉里農協では、さらなる畜産振興をはかり食肉需要に応じるべく、県外産の黒毛和種の優良繁殖牛を島根、鳥取、兵庫、岡山の各県から導入して子牛生産に努めました。昭和36年(1961)、兵庫県美方郡から種雄牛の「長福号」を導入、同年に江刺市和牛生産改良組合も結成され、肉質の優れた兵庫の但馬牛を導入基準とした本格的な和牛子牛生産が始められました。そして、翌年には「和人号」が導入されます。
和人号は種雄牛としての資質が高く、江刺のみならず胆江地方の黒毛和種子牛の資質向上に大きく貢献しました。和牛子牛の銘柄である「陸中牛」という名称もこの頃から使用され、子牛市場で高い評価を得ています。以後は繁殖雌牛の導入先も兵庫県美方郡のみにしぼって血統の均一化による和牛改良が進められ、昭和49年(1974)には「恒徳号」、昭和57年(1982)には「菊谷号」を導入し、その優れた資質により他産地との格差が顕著に見られるようになりました。
岩手県内の肉牛は従来、黒毛和種よりも日本短角種の生産が主流で、実際に県の肉牛生産の方針も昭和60年代までは日本短角種が主な対象とされてきました。その中で、江刺地方は早くから資質の高い黒毛和種の子牛生産地帯を構築したことで、前沢から出荷された肥育牛は「前沢牛」として、さらに「江刺牛」「奥州牛」など高品質でブランド価値の高い銘柄の確立に成功し、その素牛である「陸中牛」の知名度もさらに上がり、子牛の価格も高水準で取引されるようになりました。

昭和13年の畜産農家

昭和13年(1938)の畜産農家

昭和30年代の農耕馬

昭和30年代の農耕馬

和人号

和人号

菊谷号

菊谷号

放牧風景

放牧風景

奥の院(第一展示室)
祈りの伝統と諸物

信仰の系譜

蝦夷の根拠地だった胆江地方は中央政府の支配に従わず、朝廷軍を退けるなど激しく抵抗していましたが、延暦21年(802)、征夷大将軍の坂上田村麻呂によって胆沢城が建置されたことで対立は一応の決着を迎え、朝廷の支配領域となりました。したがって、仏教文化がこの地方へ本格的に導入されたのは平安時代以降で、田村麻呂は蝦夷が古くから崇めてきた地域の祭神に中央の神々と同様の神階を授け、同時に寺院造営を推進しました。
胆沢城は造営後まもなく奥羽両国の軍事を統轄する鎮守府となり、行政機能も国府多賀城に次ぐ権限が与えられ、胆沢城周辺には儀式を行うための寺院が整備されました。胆沢城から北へ約10kmに位置する極楽寺は天安元年(857)、国分寺に準じた寺格である定額寺に定められ、田村麻呂はこの寺院に2丈8尺(約8.4m)の巨大な兜跋毘沙門天を安置したと伝えられています。また、黒石寺の本尊、薬師如来坐像の胎内に記された貞観4年(862)の造像年は、胆沢城建置からちょうど60年の還暦にあたり、同年に近くの岩手堰神社が官社になるなど、当初は鎮守府主導のもとで地域の文教施策が展開されていました。
平安中期になると、仏教は地域信仰との習合を重ねながら浸透して各地に定着。中央政府による地方支配も次第に緩慢になったことで、寺社や尊像の造立も地方官僚らの手に委ねられるようになり、そこから奥六郡の支配へとおよんだ安倍氏の全盛期が始まります。
江刺地方東部の北上山地に位置する藤里浅井の兜跋毘沙門天立像は、11世紀前半の造像。一木造の素木仕上げで鉈彫を施すこの時期特有の像容を示し、また、慈覚大師円仁の手作によるとされる伝承は、天台仏教がこの地に定着したことを示唆するものと考えられます。さらに、この毘沙門天は坂上田村麻呂の化身であるとも伝えられ、像高は田村麻呂と同寸とされる5尺8寸(約175cm)であることから、当時の化身・変化思想と鉈彫に霊験性を求めた信仰を考える上で重要な作例といえます。
平安後期はみちのくの都である平泉を中心に、京の様式美を取り入れた荘厳華麗な文化が展開し、円満優美な諸仏が各地に祀られるようになります。とりわけ、江刺地方は奥州藤原氏父祖の地であり、平泉初代の清衡が居館した豊田館や、中尊寺落慶供養の資とした紺紙金銀字交書一切経の写経寺院、益沢院の擬定地が所在。これらの周辺からは、平泉時代の陶磁器類が出土するなど、平泉と当地との関連性を裏付けています。
梁川栗生沢の白山神社に祀られる聖観音立像は12世紀の造像で、穏やかな衣文や均整のとれた体躯からなる優美な姿は平泉文化の影響を色濃く表しています。また、田原土谷の常寿院の千手観音菩薩三尊立像鏡像は、千手観音に不動明王と毘沙門天が従う三尊を毛彫した銅造の鏡板ですが、中核の千手観音には通例の合掌手や宝鉢手がなく、左手に蓮華を持ち右手を挙げる聖観音の印相を併せ持つ異例の尊様となっています。これは比叡山横川中堂の聖観音三尊が端緒とされ、平安時代における天台仏教の特徴を示した作例です。
中世の江刺地方には曹洞宗の布教に伴って多くの寺院が開かれ、中でも黒石に開山した正法寺は曹洞宗奥羽両州の本山として多くの末寺を擁しました。また、中世武士たちの信仰を示す板碑の建立や修験僧たちの活動も活発になり、庶民の間には浄土信仰も広く浸透しました。
江戸時代は町場の整備や寺社の再建などが盛んに進められ、在郷でも神仏が数多く祀られるようになります。一方、民間信仰や郷土芸能、年中行事などとも相まって江刺地方特有の信仰文化を形成しました。

銅龍頭

銅龍頭【複製】
平安時代
原資料/極楽寺 蔵

木造 薬師如来坐像

木造 薬師如来坐像【複製】
貞観4年(862)
原資料/黒石寺 蔵

千手観音菩薩三尊立像鏡像

千手観音菩薩三尊立像鏡像
平安時代(12世紀)
常寿院 蔵

塼仏

塼仏
平安時代
豊田館跡出土

木造 薬師如来坐像

木造 兜跋毘沙門天立像【複製】
平安時代(11世紀)
原資料/藤里浅井愛宕神社 蔵

白磁四耳壺

白磁四耳壺
平安時代
伝 豊田館跡出土

渥美壺

渥美壺
平安時代(12世紀)
万松寺経塚出土

木造 聖観音菩薩立像

木造 聖観音菩薩立像
平安時代(12世紀)
梁川栗生沢 白山神社 蔵

木造 如意輪観音坐像

木造 如意輪観音坐像【複製】
鎌倉時代
原資料/正法寺 蔵

木造 毘沙門天立像

木造 毘沙門天立像
鎌倉時代
小名丸毘沙門堂 蔵

木造 二神立像

木造 二神立像(山神像)
江戸時代
小名丸毘沙門堂 蔵

中善小原家の観音像群(中善観音)

江刺地方の中心市街地である岩谷堂の町民から「中善観音」の名称で親しまれてきた観音像群は、西国三十三観音、坂東三十三観音、秩父三十四観音を合わせた100躰に丈余の聖観音坐像を加えた101躰で構成されています。
これらは江戸時代中期の造像で、主に京仏師の作。気仙郡猪川村(現大船渡市猪川町)の大農家で稲子沢長者と称された鈴木家の歴代当主の発願によって造立されたものです。鈴木家では屋敷地内に「雨宝堂」を建立し、観音像群を安置。長く地域住民の崇敬を集めてきましたが、みちのく屈指の大富豪として隆盛した鈴木家も、仙台藩からの度重なる資金調達や明治期の土地制度改革などによって次第に衰退し、明治45年(1911)に観音像群はじめ雨宝堂の諸物は江刺郡岩谷堂町の商家「中善」の小原善次郎へと委ねられることになりました。
小原善次郎は元治元年(1864)に花巻で生まれ、明治10年(1877)頃から岩谷堂で商売を学んで独立。商号を中善と号して、明治25年(1892)頃から主にビール木函の製造や東京への岩手木炭の納入・販売を行っていました。
観音像群を預かった善次郎は、狭小に商店の軒を連ねる岩谷堂の町は火災に脆弱であったことを懸念して、耐火性の強い煉瓦造りの蔵を建造。観音像群と諸物は岩谷堂で唯一の煉瓦蔵で安置されることになりました。
蔵の完成後、善次郎は観音像群の擁護に益々の力を注ぐとともに、地域の産業や教育などの発展にも尽力。女学校や警察署の設立を支援し、江刺中央耕地整理組合の組合長に就任すると、自ら陣頭指揮を取って水路設備や田畑の整備を実施しています。これらを介して、原敬や後藤新平らとも深い親交がありました。
なお、善次郎は熱心なロシア正教徒としても知られ、その信仰の深さから、自らの生涯を江刺の近代化と発展に捧げた郷土の先覚者でもあります。そして、善次郎以後も観音像群と諸物は小原家歴代によって今日まで大切に維持管理されてきました。

中善観音

中善小原家の観音像群 江戸時代 小原家蔵

木造 阿弥陀如来三尊立像

木造 阿弥陀如来三尊立像
(善光寺如来)
江戸時代
小原家蔵

小原善次郎

小原善次郎

体験棟
農具と生活史

昔の暮らしみつけた

江刺地方の人々の暮らしは農業とともにありました。特に米づくりは弥生時代から定着し、基本的な農具も存在していたと考えられます。古墳時代以降は段階的に農具も発達し、また農耕馬が導入されたことで農作業の効率化が進み、次第に農地も拡大。集落も増加していきました。
江戸時代になると、仙台藩の農業政策により新田開発や灌漑設備の整備が盛んに行われ、現代にみる江刺地方の田園風景が形成されていきます。また、千歯扱きなどの画期的な脱穀具が登場したことで、脱穀作業時間が短縮され、裏作栽培の発展も促しました。
近代以降は伝統的な農法に加え、耕地整理や化学肥料の導入、農具の開発や米の品種改良などの目まぐるしい発展を迎え、昭和40年代には、ついに農業機械が普及します。これにより、農作業は大幅に軽減され、同時に数多くの農耕馬や農具が納屋から姿を消しました。また、農事を中心としてきた人々の生活様式も大きく変化し、広い土間や踏み込み炉などを持った伝統的な農家建築も現代家屋へと姿を変えていきます。さらに、家電の登場によって身近な道具も様変わりし、暮らしは一層豊かなものへと発展を遂げました。
高い生活水準を誇る今日だからこそ、農業や暮らしを支えてきた道具に触れ、先人たちの多年にわたる知恵と技術に学ぶことで、未来のさらなる発展が望めるのかもしれません。
体験棟では近現代の農具や生活用品を展示し、これらの資料は学校教育における学習利用などにも活用されています。

学習利用方法

さき織り
さき織り

第二展示室

館内外から集められた資料や美術品を展示し、主に奥州市や江刺地方に関連した多彩な企画展やテーマ展などが随時開催されます。

研修室(特別展示室)

多目的な機能を有する研修室では、講座や体験教室のほか、特別展示室として企画展や作品展などの展覧会が開催されます。

第二展示室

第二展示室