館長室から

#22 如月 五位塚について(4)

2026年2月1日

〇「奥羽史講習会」その後

またまた今回も小玉克幸氏(奥州市地域文化財研究所)が胆江日日新聞紙上に掲載された「特別寄稿 江刺金札米を生み出した人々 最後の江刺郡長 黒澤喜一郎氏」を参考にしながら記述してみます。

「奥羽史講習会」の終了後、同じ会場で東北六県史蹟調査委員及び研究者協議会が開かれます。大正14(1925)年8月19日の岩手日報には【東北六県史蹟調査委員会の研究協議会 奥羽史講習会終了後 岩谷堂で開かれた】とあり、小田島祿郎がその内容について取材を受けています。これによると、東北各県での調査や報告内容について情報が共有されていないので、今後は共に研究することを申し合わせ、具体的には各県の報告書を入手したいときは夫々県に取り次ぐなどの便宜をはかること等を話し合っています。また、当日比較研究問題として話題にのぼったのは竪穴・貝塚・古墳の三者であり、「奥羽における分布経路をあきらかにすべくつとめることとなった」としています。さらに、将来においても機会があれば同様な会合を開きたいと結んでいます。

前回のコラムで紹介した秋田県の後藤宙外の活動は、まさにこの会合の成果のひとつであったと思われます。

小田島祿郎は、明治14(1881)年二戸郡浄法寺村(当時)に生まれ、明治36(1903)年に岩手師範学校を卒業後教師として勤務します。この間に考古学を学び各地で発掘調査を行っていたようです。大正12(1923)年8月に岩手県史蹟名勝天然記念物調査会委員に任命されますが、この前後に内務省の柴田常恵考査官を案内し発掘調査や踏査を行っています。柴田と小田島は大正13(1924)年には気仙地方の貝塚を訪れ、大船渡市蛸ノ浦貝塚・同下船渡貝塚・陸前高田市中沢浜貝塚の国史跡としての指定に結び付く調査を行っています。また、この後宮古方面に足をのばし宮古市崎山貝塚で発掘調査を行い貝塚であることを確認しており、これも結果的に国史跡の指定に結び付くことになります。

大正14(1925)年6月に小田島は勤務していた気仙郡広田尋常小学校(現在の陸前高田市)から江刺郡岩谷堂実科女学校(現在の奥州市江刺地区)に異動します。年度途中の異動であることから、恐らく黒澤喜一郎江刺郡長の要請があったものと思われます。この後小田島は早速「奥羽史講習会」と「考古資料展覧会」の準備に取り掛かったようです。

さらに、講習会終了後は展示会の図録である『岩手考古図集』(写真1~3)の編集を行い、翌大正15(1926)年6月に刊行します。その「緒言」の中で小田島は「文学博士高橋健自氏を煩わし九百点余りを採り、之に説明を付し当時の会員に頒布して聊(いささ)かその缼(けつ)を補うと共に、広く地方の資料を世に紹介せん趣旨の許に、郡教育部会長黒澤喜一郎氏より余にその解説を嘱せられたり」と刊行の目的を述べています。小田島は高橋健自博士から指導を受けるとともに印刷所も紹介され、東京の大塚巧芸社に印刷を依頼しています。『岩手考古図集』は展示図録として解説文の記載内容は学術的に当時最先端のレベルであり、写真や印刷技術も含め岩手県の教育会においては極めて画期的なものであったと言えます。

このほか小田島は五位塚古墳群の分布図を残しています。これによると墳丘の数は35基であり、大正14年6月5日付けの岩手日報に掲載された黒澤郡長の記事による墳丘数と符合しています。恐らく江刺への赴任直後に五位塚の調査を行ったものと思われますが、図面を仕上げたのは少し後なのかもしれません。
 
一方、高橋健自博士は大正14年10月に発行された『考古学雑誌』第十五巻、第十二号の「彙(い)報」において「旅中所見」という記事を投稿しています。「この夏岩手県岩谷堂へ講演についた折に見聞きしたこと」について、「従来我が古墳に於いて方形墳は比較的稀な形式であって其の年代も推古舒明あたりの寧ろ末期に近いものと考えられているが、この形式が陸中地方に案外多く存在することを知った。江刺郡五位塚の古墳群の如きはその半数がそれである。思うに古墳時代末期に行われた此の様式が、文化の遅れた東北の地に盛に遺存しているのは当然の帰結でなければならぬ。」としています。このように高橋博士は「奥羽史講習会」で述べた五位塚に関する見解を専門誌上に発表しました。これによって五位塚古墳群に関する学術的な解釈が正式に公表されたと言えます。

ところで余談ですが、高橋健自は大正12(1923)年に『銅鉾銅剣の研究』という論文を提出し京都帝国大学から文学博士の学位を授与されています。

五位塚について写真1 岩手考古図集表紙

五位塚について写真2 同写真図版

五位塚について写真3 同奥付

髙橋憲太郎

髙橋憲太郎(たかはしけんたろう)

1958年、水沢市(現奥州市)に生まれる。
1977年、岩手大学教育学部に入学し、岩手大学考古学研究会に入会後、岩手県教育委員会の西田遺跡資料整理作業や盛岡市教育委員会の志波城跡(太田方八丁遺跡)・大館町遺跡・柿ノ木平遺跡等の発掘調査や整理作業に参加する。
1981年、大学卒業後、盛岡市教育委員会(非常勤職員)・宮古市教育委員会(1984年正職員)に勤務。特に宮古市では崎山貝塚の確認調査や国史跡指定業務等に従事した。この間文化課長・崎山貝塚縄文の森ミュージアム館長・北上山地民俗資料館長等を歴任。
退職後の2020年、奥州市に帰り教育委員会にて文化財専門員(会計年度任用職員)として埋蔵文化財業務等に対応。

2021年、岩手県立大学総合政策学部非常勤講師。

2024年、えさし郷土文化館長就任。

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