館長室から

#51 水無月 岩手の経塚群 ―12世紀、奥州藤原氏時代を中心に②―

2018年6月12日

◇岩手の経塚他研究史(この項は岩手県立博物館発行の『岩手の経塚』を参考にした)

▼江戸時代

平泉研究の先駆者の相原友直(あいはら・ともなお、1703~82)は18世紀に『平泉実記(ひらいずみ・じっき)』『平泉舊蹟志(ひらいずみ・きゅうせきし)』『平泉雑記(ひらいずみ・ざっき)』の所謂「平泉三部作」を著した。うち、宝暦十年(ほうれき、1760)の『平泉舊蹟志』では、金鶏山について、「基衡(もとひら、二代)黄金を以て鶏の雌雄を造り、此山の土中に築(つき)込めて、平泉を鎮護せしむると云い傳へり、又、郷説に、秀衡(ひでひら、三代)漆萬盃の内に、黄金数億を交(まじ)へ土中へ埋(うず)み隠し置く」と記している。

また、安永二年(あんえい、1773)の『平泉雑記』には、宝暦九年(1759)に、金鶏山の東南に所在する新熊野(しんくまの)神社の跡より、「二升餘ヲ納ルヘシ、蓋ハナシ、藥ハカゝリタルトモ砂肌二似」た壺の中より、百姓が玉と黄金を見出した、とある。この場所は、現在の花立(はなだて)の溜池に該当する。

▼文政年間(ぶんせい、1818~29)

和田甚五兵衛氏武(わだ・じんごべえ・うじたけ)が『二郡見分私記(にぐんけんぶん・しき)』を著した。和田は盛岡藩士、二郡とは和賀・稗貫郡である。それによると、貞享年間(じょうきょう、1684~87)に、現花巻市小舟渡(こふなと)で北上川の流路を変更するため、松の老木を伐り倒して掘削したところ、大きな瓶(かめ)を2,3個掘り出した。

さらにもう1つを掘り出したところ、「二重瓶(ふたえかめ)と見ゆる也、外瓶(そとかめ)破るれども内瓶(うちかめ)存せり、内に小太刀のやうにて皆朽(くち)、七八寸の鐵(かな)ものあり、銀にて形分らざるもの、亦瀬戸(せと)にて壺のやう成もの、其儘破れ、洗ったところ、砂金八匁がみつかった」という。この記述は、経塚とその内の埋経容器等についての記述の可能性が大である。

▼明治時代

1889年(明治22)佐藤重紀(さとう・しげき)は『東京人類学雑記』に載せた「東北地方見聞」において、和賀郡沢内村(現西和賀町)の一字一石経塚を簡単に紹介している。

▼大正~1935年(昭和10)頃まで

この期間に県内各地で埋経陶器が発見された。その主な例を挙げると、鹿之畑経塚(かのはた、旧花泉町)・三熊野神社経塚群(みくまの、旧東和町)・高松山経塚群(たかまつやま、花巻市)・越戸内経塚(おっとない、陸前高田市)・金鶏山経塚(きんけいざん、平泉町)・内村地区(うちむら、盛岡市)・高勝寺跡(こうしょうじ、旧江刺郡稲瀬村)・五輪堂(ごりんどう、旧胆沢郡前沢町)・伝比爪館跡(でん・ひづめだてあと、紫波町)・土踏まずの丘経塚(つちふまずのおか、旧浄法寺町)などである。

また、この時期に、岩手史跡名勝天然記念物調査会が結成され、大正10年(1920)に『史跡名勝天然記念物調査報告』第1号が刊行された。

昭和5年(1930)までに刊行された第1・2・3・6・10号に経塚に関する報告がある。それらは、永井の経塚(ながい、盛岡市、近世)・立花の一字一石経塚(たちばな、北上市)・高松山経塚(たかまつやま、花巻市、12世紀)・熊野神社経塚(くまのじんじゃ、旧東和町、12世紀)・佐比内の経塚(さひない、享保十三年(1728)、紫波町)・山口の一字一石経塚(やまぐち、永和二年(1376)、宮古市)・金鶏山経塚(きんけいざん、12世紀、平泉町)である。

▼1945年(昭和20)以降

昭和20年代は万松寺経塚(ばんしょうじ、旧江刺市、12世紀)・石神経塚(いしがみ、旧衣川村)程度で、多くは昭和30年代の発見である。例えば、新山神社経塚(にいやまじんじゃ、12世紀、北上市)・丹内山神社経塚(たんないさんじんじゃ、12世紀、旧東和町)・寺ノ上経塚(てらのうえ、12世紀、旧前沢町)・真行寺経塚(しんぎょうじ、12世紀、旧東和町)・西方寺毘沙門堂経塚(さいほうじ・びしゃもんどう、12世紀、一戸町)などである。

▼1980年(昭和55)以降

昭和47年以降急増した東北自動車道・東北新幹線建設関連の大規模調査では、経塚の確認例は少ない。

昭和55年以降では、城内山頂(じょうないさんちょう、12世紀、矢巾町)・山屋館経塚(やまやだて、12世紀、紫波町)・上須々孫館経塚(かみすすまごだて、12世紀、旧和賀町)などがある。

以上の例の大半は工事中などの偶然の発見、或いは好事家の発掘による出土であり、詳細な調査記録を伴っていないのが惜しまれる。

しかし、これからのうちの12世紀代の陶磁器資料は、当時の信仰の在り方を示すものばかりでなく、奥州藤原氏の地域支配の一端を示す貴重な資料にもなり、今後も積極的に研究されなければならない。

#51 水無月 岩手の経塚群 ―12世紀、奥州藤原氏時代を中心に②―
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

2024年えさし郷土文化館館長退任

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