館長室から

#85 卯月 義経は生きて北へ逃れた?―蝦夷地から成吉思汗まで―⑥

2021年4月1日

◆第二期―鎌倉時代前・中期
 義経の死後、やはりその死を悼む民衆の特別な思いがあったと思われますが、そのことは義経が文芸の中で「復活」していることから推定できます。ここでいう文芸には2種類があります。1つは知識人の手による文芸作品、他の1つは無名の「語り部」たちによる口承文芸です。

*鎌倉時代前期から中期にかけて、源平合戦を主題とする軍記物語が相次いで成立します。年代順にあげますと『平家物語』(1219~43年の間に成立)、『保元物語』(鎌倉時代初期成立)、『平治物語』(鎌倉時代初期成立)、『源平盛衰記』(鎌倉時代~南北朝時代に成立)。これらの中で、義経を最初に登場・「復活」させたのが、知識人の手になる文芸作品である『平家物語』です。
 義経は源義仲(木曽義仲)との合戦の場面に突然登場します。その後の平家との合戦での華々しい
活躍が詳述された後に没落の経過が記述され、吉野山で消息を絶つところで舞台から去っています。
 『源平盛衰記』は『平家物語』の異本とされていて、義経の合戦での活躍に加えて、その生い立ちにも多少触れています。

 『平家物語』の作者についての記述が、吉田兼好の有名な随筆集の『徒然草』(1310~31年にかけて記述)にあります。その大意を紹介します。
「後鳥羽院の御時(在位1183~98)、信濃前司行長という漢詩文をよくする下級の貴族が居たが、出家した後、天台座主慈円の庇護を受けていた(中略)この行長が『平家物語』を著して、生仏という盲目の法師に教えて語らせた。延暦寺のことをとくに立派に記し、九朗判官義経のことを詳しく知っていて書き載せている。蒲冠者範頼(頼朝の弟で義経の兄)のことはよく知らなかったのか、多くの事こと、弓や馬などの戦いの技のことは、東国人である生仏が武士に取材したうえで、行長に書かせた。現在の琵琶法師たちは、生仏の生まれた東国なまりの発音で『平家物語』を習っている」と。

 次に無名の「語り部」たちによる口承文芸があります。記載文学の確立以前、口伝えによって語り継ぎ歌い継がれてきた口承文芸の普及に大きな役割を果たしたのが琵琶法師です。盲目の琵琶法師たちは『平家物語』の成立以前から存在しており、義経の死の直後から、その悲運を語っていたことは想像できます。

 また、修験者(山伏)たちも同様であったでしょう。山岳宗教の担い手であった彼らは勧進の旅をする漂泊者でしたが、地方の人々にとっては重要な情報伝達者でもありました。義経の逃亡に山岳寺院の支援があったことを考えると、修験者たちも義経のことを大いに語っていたのでしょう。

 以下の知識人による文芸作と、無名の「語り部」による口承文芸、これらの蓄積の結果として室町時代に『義経記』が成立します。

義経は生きて北へ逃れた?
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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