館長室から

#86 皐月 義経は生きて北へ逃れた?―蝦夷地から成吉思汗まで―⑦

2021年5月1日

◆第三期 室町時代中・後期
『義経記』全八巻は義経の一代記ともいうべき一種の軍記物語で、室町時代初期、或いは中期頃の成立といわれています。
 この物語の著者や成立の経過は不明でしたが、日本民俗学の創始者の柳田国男(1875~1962)が「東北文学の研究」(『雪国の春』所収)(1928(昭和3)刊行)において、「奥州各地で語られていた義経を主題とする口承文芸が京都で結集された結果、『義経記』が成立したのではないか」と推定しました。民衆の間に義経に対する強い思い入れがあったことが影響したのでしょう。

 この物語には大きな特色があります。先の高橋富雄氏は、「(『義経記』は)歴史の重みから伝記を語るのでなしに、歴史への願いからその伝記を語ろうとしたもの」と述べています。
 つまり、『義経記』は(こうなって欲しい、こうあるべきだ、こうだったら嬉しい)という民衆の欲求に応える形で記述されている、ということです。
 例えば、義経の容貌は『平家物語』では「背が低く、色白だが出っ歯」と記述されていますが、『義経記』では「絶世の美少年」となっています。その性格は、『平家物語』では合戦の指揮官という側面が強いのに対して、『義経記』の前半部では兵法や諸芸の達人的な趣(おもむき)があります。また、『平家物語』ではきらびやかな主経の陰に隠れていた家臣たちが、『義経記』では表舞台に出て縦横無尽の活躍をしています。

 高橋氏はさらに、「『義経記』は「義経が平家を追討する物語でなしに、義経が追討される物語」として作成された」とも述べています。
 確かに、平家を追討する場面での華々しい活躍は数行にすぎず、没落の過程の方が詳しく記述されています。
 物語前半で、あれほど活動的な武人であった義経が、後半では全く意気地の無い無能力者のように描かれています。弁慶たちの献身的な努力で生きながらえているのも、没落の悲哀を一層強調するための手法であったのでしょう。

 このように義経の記述が一変した理由を、高橋氏は次のように推定しています。
「義経において理想的な英雄を見出そうとする物語精神が、武将物語だけでは満足できず、ちょうど郎等たちに武将の役目を譲って非役となった義経に、もう一つの英雄の類型である王朝貴公子の役を割り当て、その苛まれる流離の物語として、悲劇性をさらに深めようとする構成に変わってきた」と。

 ここに至り、義経に二つの顔が与えられました。一つは平家を滅亡させた英雄としての顔、もう一つは時代に翻弄され、疎外され、為すすべなく没落してゆく零落者としての顔です。前者の義経を描いたのが『平家物語』で後者のそれが『義経紀』です。民衆は武将として強い義経よりも被害者としての弱い義経を欲したのでした。

 いずれにしても、弱者への同情という日本人好み、心情の発露というべきでしょう。

義経は生きて北へ逃れた?
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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