館長室から

#92 霜月 義経は生きて北へ逃れた?―蝦夷地から成吉思汗まで―⑬

2021年11月1日

▶中期(17世紀末~18世紀前半)
 義経生存説を称える書物が元禄3年(1690)以降、続々と刊行されるようになります。
 いままでの伝承とことなり、すべてに著者がいます。そして著者には3タイプがあります。
 即ち、専門の歴史学者・幕府や藩お抱えの学者、町人学者、文芸家で、義経生存説に立っていたのは、おもに町人学者と文芸家でした。自由に空想し、民衆の願望を反映する形で執筆できた人々です。
 専門の学者は生存説を一蹴していますが、中には、新井白石のように義経蝦夷脱出についての断定を避けている人もおります。
また、徳川光圀の命で水戸藩が編纂した『大日本史』は義経自害を史実と認定していますが、俗説として義経生存と蝦夷地での義経崇拝を記しています。

〇この時期の出版の口火を切ったのは、元禄3年(1690)出版の南宗庵(多々良)一龍 著の『残太平記』です。蝦夷地に渡りアイヌのために尽くした義経は、死後、アイヌから「義経大明神」として祀られ、今日でも崇拝されている、などが記されています。

○元禄10年(1697)出版の樋口好運 著の『本朝武家高名記』は『残太平記』とほぼ同様の内容。

○元禄13年(1700)刊行の遠藤元閑(廣長軒)著『本朝武家評林』になると、話のスケールが大きくなります。
「死期の迫った秀衡は義経に「衣川の奥山に一穴がある、緊急の時はここに逃げよ、穴は外が浜に通じている」と伝えた。文治5年閏4月30日、衣川館を脱出、蝦夷地へ逃れる。義経は蝦夷地の人々に敬愛され、74歳まで生きた。その死後、「義経大明神」として祀られた。近年叛乱を起こしたシャクシャインは「我は従五位下伊予守義経公の末裔」と語ったという」などという具合です。

○元禄17年(1704)に刊行された小幡邦器 著の『義経興廃記』では、四代泰衡が義経逃亡の協力者になっています。泰衡が義経を説得します。「京都より貴殿(義経)を討てとの催促がしきりです。父(秀衡)の遺言に従って合戦しても勝ち目はございますまい。かような状態なので貴殿をお守りすることは適いません。ひとまず、鎌倉方の手が及ば所に落ち延びられよ」と。その結果、義経一行は秘密の間道を通って出羽国に出て、船で蝦夷地へ向かった、云云」と。
 ところが、著者の小幡は、様々な義経伝説を紹介した後に、「愚按ずるに」と称して、「(義経一行は)身代わりをたて、討ち死にしたと見せかけて間道から逃げ延びたにちがいない。泰衡もかねての打ち合わせの通り、特に義経のない場死骸を改めもせずに、適当な焼け首を鎌倉に送ったのであろう。
 ところで『吾妻鑑』に泰衡が義経を討ったとある。義経の蝦夷地脱出は虚誕で荒唐無稽の話である。今、児童のために記しておく」と記述しています。本文と正反対です。何故このようなことを記したのでしょうか。不思議です。

義経は生きて北へ逃れた?
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

2024年えさし郷土文化館館長退任

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