館長室から

#98 皐月 義経は生きて北へ逃れた?―蝦夷地から成吉思汗まで―⑲

2022年5月1日

○桂川中良の批判―中良は医師・戯作者・蘭学者・狂歌師など様々な顔をもつ多才な人物でその随筆集の『桂林漫録』(享和3年(1803)刊行)に、森長見が根拠とした『図書輯勘』に対する調査開始からその結果までの様子を記述しています。
 即ち、中良は紅葉山文庫所蔵の『古今図書集成』の閲覧を強く希望していたが、たまたま、兄が幕府の医学館教授を勤めていたことからそれがかなった。実見した結果、序文にそのような記述はなかった。さらに、総目録をみると『図書輯勘』という書名はなかった。つまり、これは存在しない図書名であったことを確認。
 そして「『古今図書集成』という貴重な書物を閲覧できたうえに、真実を知ったことこそ大きな幸福である。義経清朝先祖説は『国学忘貝』に限らず広く世に喧伝されているが、同好の士よ。義経と清朝のことに関しては永久に懸念を絶つべきである」と述べています。

 ▶『古今図書集成』と義経を関係付けたのは?
 森長見は義経清朝開祖説を「或る儒者(儒学者)が書き残した書物で知った」と記していますが、それでは「或る儒者」とは誰でしょうか?

○これについて、根拠は不明ですが、寛政3年(1791)の『浄土真宗名目図』に「伊藤才蔵之記より出す」と記してあるそうですが、根拠不明です。
伊藤才蔵(号は蘭嵎)は、江戸時代前期の大儒学者である伊藤仁斎(1627~1705)の第五子で、紀伊徳川家の儒官を努めたほどの大学者ですが、この推定の根拠は不明です。

○このほかに、外国の図書を扱う場の近くにいた役人が関係したのではないか、との説もありますが、こちらの説に、より可能性があるように思われます。
 当時の日本には①松前(対中国大陸北方)、②長崎(対中国・オランダ)、③対馬(対朝鮮)、④薩摩(対中国)の4つの窓口がありました。①③④は運営が各藩に任されていましたが、②の長崎だけは幕府の直轄で、中国から輸入される一切の書籍は、長崎に陸揚げされた後、長崎奉行配下の書物改役が検閲に当たりました。はじめは検閲専門であった改役も、時代を経てノウハウを蓄積すると、様々な仕事を担当したといいます。
 実際、『古今図書集成』が輸入された際に、最初に解題(書物や絵の解説)をしたのも彼らであったといいます。
 そのような役人の1人が、「恐らく、何かのはずみで、清の国号が清和源氏の頭字に通じることに気づいたことが、そのような説を発想した発端ではなかったか」という説が魅力的に感じられます(岩崎克己『義経入夷渡満説書誌』)。

 ▶この時期になると、義経伝説は様変わりし、それまでのいかにも伝承だとわかる一種の「おおらかさ」の影が薄くなり、ある意味で「きな臭く」なる傾向があります。例えば、安永5年(1776)刊行の国学者神沢杜口著の『翁草』に「清朝は北虜(漢民族から見て北方の異民族)から出ているが、現在、祖先が狄虜(北方を侵す異民族)出身であることを恥じて、皇帝自ら『図書輯勘』に序文を寄せて日本の末裔であることを宣言している。我朝の美名、万世に伝えて、実に我が国の光輝である」と述べています。
 後世、より明確になる日本優位の差別意識の芽生えです。

義経は生きて北へ逃れた?
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

2024年えさし郷土文化館館長退任

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