館長室から

#100 文月 義経は生きて北へ逃れた?―蝦夷地から成吉思汗まで―㉑

2022年7月1日

▶明治維新後の諸説
 *明治4~6年頃(1871~1873頃)、新聞「東京タイムズ」の発行者のアメリカ人が成吉思汗説を調査したといいます。
 *明治4年頃来日したアメリカ人のグリフィスが、帰国後に著した『The Mikado,s Empire(皇国)』で成吉思汗説を紹介。
 *明治9年(1876)ウラジオストクへ赴任した瀬脇寿人(手塚律蔵、1822~78)は義経成吉思汗説の立場から現地調査し、現地の金烏諸が義経とし、『浦潮港日記』を作成。

○明治12年(1879)、イギリスへ外務省書記生として赴任、またケンブリッジ大学へ入学していた末松謙澄(政治家・ジャーナリスト、『源氏物語』を初めて英訳、1855~1920)が、卒業論文として、
「The Identity of the Greate Conqueror Genghis Khan with Japanese Hero Yoshitune(大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人物なること)」を英文で発表。

 現在の眼からすれば荒唐無稽な暴論ですが、その論拠の一部を示します。
  *成吉思汗の父親の名の也速該は「成吉思汗が蝦夷の海より来た」という伝説が転化したもの
  *成吉思汗愛用の白旗は源氏の旗と同じである
  *ジンギスカンは源義経の音読みの「ゲンギケイ」が訛ったもの
  *成吉思汗の息子の名前「フジ」は、富士山の「フジ」から採った
  *金烏諸―成吉思汗―源義経と転訛した・・・・

 頭脳明晰な末松がこのような論文をかいた理由は、イギリス人たちが日本を清国の属国のように言うので、日本は世界的な英雄を出した民族である、という意味を込めて大胆な説を唱えた、あえて絵空事・虚偽の説を紹介したという「確信犯」的な行為でした。

○この末松の卒業論文が和訳され、本格的に日本人へ紹介されたのは明治18年(1885)刊行の『義経再興記』によってでした。ただし、著者の末松謙澄の名前はなく、「内田弥八訳」とだけありました。

 出版の背景は次のような事情だったといいます。
 「末松がこの論文を福沢諭吉に見せ、一読を願った。福沢は面白いと思い、翻訳して出版したらどうだと塾生に述べたところ、塾生の内田弥八が私がやります、と直ちに翻訳して『義経再興記』と名付けた。肩書には内田弥八と書名のみで、元著者の名を著わさなかった。それは末松謙澄としては面白くない、英書であるから英国人の著述らしく見せかけたならば、日本の義経の事を外国人が叙してあるのは珍しいといって、売れ行きも違うだろう、云云」(宮武外骨『面白半分』大正6年(1917))。

 このような内容にも関わらず、この書は大きな反響を呼び、初版が明治18年3月、20年には七版を出す大ヒットとなりました。

義経は生きて北へ逃れた?
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

2024年えさし郷土文化館館長退任

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