館長室から

#104 霜月 「平泉文化」の新しいイメージ―考古学的研究の成果―①

2022年11月1日

◆平泉遺跡群の発掘調査
 1988年(昭和63)に開始された柳之御所遺跡の大規模発掘調査を契機として、平泉町内の多くの遺跡(平泉遺跡群)を対象とした発掘調査が激増しました。その多くは開発事業関連の発掘調査でしたが、それまで想像もしなかった考古学的成果が得られました。
1980年代までの発掘調査は寺院関係の調査が多かったのですが、80年代以降は日常生活や政治・経済活動にかかわる遺跡の調査も多くなりました。
 その結果、奥州藤原氏時代の政治・経済・思想など各方面に関わる豊富な資料が得られ、奥州藤原氏研究はより進展し、いっそう精緻なものとなりました。

◆それまでの「西高東低」的評価
 80年代以前の「平泉文化」は概ね低い評価を受けていました。その主旨は、「砂金という経済力を背景とした成金趣味的文化、完成品を京都で購入し平泉へ運んだだけの模倣的文化、仏教への理解が不足した文化、軍事的防衛体制をとっていなかったり義経を受け入れたりした三代秀衡と四代泰衡の政治的センスの無さ、等々」というものでした。日本史上に長く存在した「西高東低」的歴史観の結果ですが、現在はそれらの正反対にあるかのような見解が主流になっています。

◆「仏国土(浄土)」建設を実践!
 1126年(天治3)、初代清衡が捧げた「中尊寺建立供養願文」に込められた仏国土(浄土)をこの世に実現したいという願いは受け継がれ実践されました。
◇三代秀衡が無量光院本堂の壁に、自らの「狩猟の躰」を描かせたという『吾妻鑑』の記載は、かつてのような、「仏教への無理解のなせるわざ」ではなく、逆に「深い理解の結果(武人である自分は、心ならずも人や生き物の命を奪う罪深い存在であるが、そのようなものでも救われたい…)」と評価されています。
◇また『吾妻鑑』には、後三年合戦の後、朝廷から奥羽両国の支配を任された初代清衡は奥羽一万の村々のすべてに寺院を建て土地を寄進したともあります。
 現在、北海道南から東北地方全域に12世紀、すなわち奥州藤原氏時代の陶磁器類を出土する遺跡が600ヶ所以上確認されています。12世紀の東北地方で、国内外の陶磁器を購入できたのは奥州藤原氏以外には考えられませんので、遺跡群の在りようは『吾妻鑑』を証明するものです。
 さらに、それらの遺跡群は、当時の主要街道であった「奥大道」の推定ルートと重なったり、酒田・秋田・能代・塩釜等、中世以来の主要な「海港」の場所に集中しています。これらの事実は、奥州藤原氏は、当時の交通路、交易路も整え管理していたことを示唆します。

◆平泉は開放的な「浄土都市」!
 中尊寺・毛越寺などの大寺院と「政庁平泉舘」が所在する平泉は奥州藤原氏がこの世に作った「浄土都市」というべき都市でした。
 平泉町内の何百ヶ所にも行われてきた発掘調査によっても、中国やヨーロッパで見られる城壁や堀など都市を守る軍事的防禦施設の跡は確認されていません。恐らく無かったのでしょう。政庁平泉舘跡の柳之御所に堀はありますが、どぶ浚いをした痕跡はありません。
 平泉は軍事力ではなく、仏法の力、神様の力で守られた「開放的浄土都市」だったのでしょう。
 だからこそ、あんなにも簡単に頼朝の軍勢に滅ぼされたのでした。決して三代秀衡・四代泰衡の政治的センスの無さのせいではなかったのです。いわば、「負けるべくして負けた」と言えるのです。
 その「開放的都市」平泉は衣川・北上川・太田川で囲まれた「主要地区」と、それらの川の外側に広がる「周辺地域」で構成される複合都市、面的に都市機能が展開する都市でもあったようです。

「平泉文化」の新しいイメージ―考古学的研究の成果―
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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