館長室から

#105 師走 「平泉文化」の新しいイメージ―考古学的研究の成果―②

2022年12月1日

◆地元でも様々なものを作った!
 かつて下されていた「都で完成品を買って、平泉へ運んだだけの文化」という評価も覆されています。
 近年の発掘調査では、出土した遺物の材質や製造方法も分析しますが、そこから多くのことが見えてきました。

◆木製品―柳之御所遺跡の堀跡や井戸跡から、多くの木製品が出土しています。それらは柱や破風板、橋脚など建築材、椀や皿、箸などの飲食具、曲げ物などの容器類、刀や工具の柄、物差しなどの文房具、扇・櫛などの服飾具、糸巻などの紡織具、将棋駒や羽子板などの遊戯具、人形・呪符などの祭祀具、排便用の籌木など多方面にわたっています。
 それらに使用された木材を分析しますと、柱や橋脚にはクリ材、板材にアスナロ・スギ材など地元の木材が使用されていますが、クシ(櫛)には伊豆七島など暖地に自生するツゲ(柘植)材、西南日本のイスノキが使用されており、搬入品も混在するのがわかります。

◆金属製品 和鏡―平泉遺跡群から装身具や祭祀具として用いられた和鏡が何枚か出土しています。
 顔が映る鏡面の反対側(背面)に文様が表現され、それによって名称がつけられます。また、使用されている銅の成分によりその産地が推定可能です。
 具体的にあげますと、柳之御所遺跡から京都産の秋草双鳥鏡、平泉産の松鶴鏡が、伽羅之御所遺跡から京都産の山水飛雁鏡が、白山社遺跡から平泉産の花枝双雀鏡が、中尊寺から京都産の唐草双鳥五花鏡が、泉屋遺跡から平泉産の瑞花双鳥鏡が、里遺跡から平泉産の草花双鳥鏡が、それぞれ出土しています。
 中尊寺鏡がもっとも早い12世紀初頭であり、京都から移住した工人の指導によって、地元平泉でも生産されたのでしょう。
 なお、伽羅之御所鏡は梅樹文金銀蒔絵鏡箱の優品を伴っている(箱に入っていた)ことからも、京都からの搬入品に間違いないとされます。三代秀衡と四代泰衡の日常生活の場とされるこの伽羅之御所跡からはほんの僅かな面積を発掘しただけでもこのように貴重な遺物が出土しており、本格的に調査すれば一体どんなものが出てくるのでしょうか。

◆轡―「くつわ」といい、馬の口部に付ける道具(馬具)です。平泉遺跡群では、志羅山遺跡に馬の下顎骨が出土していて、騎馬の証拠が出ていますが、馬具としては轡と鞍の破片が出ている程度です。
 轡は杏葉轡などが何点か出ていますが、その中で最も注目されたのが志羅山遺跡から出土した鴛鴦文銅象眼鏡轡です。これと酷似した、鴛鴦(えんおう、おしどり)を鶴(つる)に変えた鶴文銅象眼鏡轡が京都府の法性寺殿跡(後白河方法の御所)から出土していたからです。双方の素材や技法を分析した結果、志羅山遺跡轡は京都産ではなく地元平泉産と推定されました。これも京都から来た工人の指導で作成されたものでしょう。

◆金属加工の痕跡―志羅山遺跡からは銅製品の製造・加工を示唆する和鏡の鋳型、炉壁の破片、鉱滓(カナクソ)、溶けた銅が付着した坩堝ほかが出土し、銅製品製造・加工の工房が所在したことを示唆しています。
 平泉駅を出て右折し、旧国道を進んだ白山社遺跡に梵鐘を鋳造した遺構が確認されています。直径1㍍以上もある大きな釣鐘を鋳た作業の跡で、大きな穴の底に台を設けて、その上に型を造って銅を流し込んだようです。穴の周辺からは壊れた和鏡の破片や、釣鐘の撞座の鋳型も出土していて、梵鐘の材料の手がかりも得られています。その位置から、三代秀衡が造立した無量光院のための梵鐘と推定されました。

「平泉文化」の新しいイメージ―考古学的研究の成果―
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

2024年えさし郷土文化館館長退任

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