館長室から

#111 水無月 「奥の細道」の旅―最終目的地は平泉か―③

2023年6月1日

◆芭蕉が持っていたイメージ
 義経とその家臣たちのイメージは、様々な物語や芸能によって形成されたものでした。芭蕉は芸能にも詳しく、その影響を受けていたと思われます。例えば、義経最期の地は『吾妻鏡』では「衣河舘」(旧衣川村?)ですが、諸芸能では「高館」(平泉町)とし、それが一般化し、芭蕉も「まず高館へ上り」落涙したのでした。

◆『義経記(ぎけいき)』
 義経の名を全国に広めたのが「義経記」でした。室町時代初期に成立した8巻構成の軍記物語。義経の没落してゆく晩年の悲劇的運命を主として描き、また弁慶の活躍に多くの筆を費やしています。別名「判官物語」「義経物語」。
 後続する諸芸能に影響し、「悲劇の英雄」義経のイメージや、いわゆる「判官びいき」の人情の形成に大きな役割を果たしました。
◆諸芸能の例
◇幸若舞(こうわかまい)
 室町時代後期に桃井直詮(もものい・なおあき、幸若丸)が始めた曲舞(くせまい)の一つ。
 *「高館(たかだち)」―義経の最期、衣川合戦、弁慶・鈴木兄弟他臣下の活躍
 (寄せ手の大軍を前に弁慶は鈴木兄弟に鼓で囃させて、大声で歌いながら舞い始める。「嬉しや、とう〱と鳴るは滝の水、日は照る共いつも絶へせじ。面白や、笩を下す大井川、花を流すは吉野河、紅葉を下すは竜田川、都辺りに名河は様々多けれど、遠国ながら名所かな。霧山高嶺の残の雪消え、谷の氷柱も解けぬれば、衣川の水嵩まさって、奥方の軍兵を弁慶が長刀にて、湊を指して切り流す、切り流す」
 *「含状(ふくみじょう)」―権頭兼房の壮絶な活躍
 (義経の最期に立ち会った兼房は、嘆きながらも義経の妻子を殺し、自らも腹を切り、その腹の中に、自害した義経の首を収め、猛火の中へ飛び込む。
 鎌倉で頼朝は畠山重忠に義経の首を確認させる。重忠は首の口の中を改め、歯並びから義経の首と判断する。その口の中には、頼朝に宛てた一巻の巻物が含まれており、義経の心情が記されていた)
 *「和泉が城(いずみがじょう)」―和泉三郎と妻のこと
 *「清重(きよしげ)」―伊勢三郎と駿河次郎のこと
 *「八島(やしま)」―佐藤兄弟と母、二人の嫁のこと
◇能(のう)(能楽)
 鎌倉時代に成立した歌舞劇。
 *「高館」(野口判官(のぐち・ほうがん))―衣川の合戦
 *「二人靜(ふたりしづか)」―権頭兼房のこと
 *「錦戸(にしきど)」―和泉三郎と妻のこと
◇謡(うたい)(謡曲(ようきょく))
 能楽の詞章
 *「接待(せったい)」―佐藤兄弟の母のこと
 *「八島」―権頭兼房のこと
 *「錦戸」―和泉三郎のこと
◇浄瑠璃
 室町末期の「浄瑠璃姫物語」に始まる三味線伴奏の語り物音楽
 *「たかだち」―同前
 *「新高館」―同前
◇奥浄瑠璃(おくじょうるり)
 近世初期、仙台藩に伝えられた古浄瑠璃(こじょうるり)。盲人が扇拍子や三味線に合わせて語る。仙台浄瑠璃・御国(おくに)浄瑠璃ともいう。胆江地方にも昭和年代まで行われていた。
 *「牛若君奥州下り」
 *「尼公(君)(あまぎみ)物語」―佐藤兄弟の母のこと
 *「ごすいでん」―鈴木三郎のこと

「奥の細道」の旅―最終目的地は平泉か―
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

2024年えさし郷土文化館館長退任

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