館長室から

#114 長月 「奥の細道」の旅―最終目的地は平泉か―⑥

2023年9月1日

◆芭蕉、「奥浄瑠璃を聞く」
 元禄二年(1689)三月廿七日に江戸を出発した芭蕉は、「あやめふくころ」仙台領に入り、壷の碑(つぼのいしぶみ)や末の松山(すえのまつやま)(いずれも現宮城県多賀城市)を見て、五月八日、塩釜に宿をとります。その夜、芭蕉は盲目の法師が語る奥浄瑠璃(おくじょうるり)を聞きます。
 本文には「其夜目盲法師の琵琶をならして、奥上(浄)るりと云ものをかたる。平家にもあらず、舞にもあらず、ひなびたる調子うち上て、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものからの、殊勝に覚らる。」とあります。

「平家にもあらず舞にもあらず」とは「平家琵琶でも幸若舞でもない」という意味です。
「奥上るり(奥浄瑠璃)とは、仙台浄瑠璃・御国浄瑠璃ともいう。近世初期の天正・慶長(てんしょう・けいちょう)頃、仙台藩に伝えられた浄瑠璃の一種。古浄瑠璃やそれを模して作った浄瑠璃を仙台藩特有の曲節でかたる。盲人が扇拍子、または琵琶・三味線に合わせて語る。」
 「牛若君奥州下り」「堀川夜討」「尼公物語」など義経に関する演目が多く、岩手県南部でも昭和50年代頃までは語られていました。

 『曽良旅日記』のこの日の部分を見ますと、宿で奥浄瑠璃を聞いたことは記されていません。従って、実際にはそのようなことはなかったと思われます。しかし、芭蕉があえてこのように記した理由には、奥浄瑠璃に義経に関する演目が多いことを熟知していたからと推定できます。

◆「尼君物語(あまぎみ・ものがたり)」
 頼朝の追補を逃れて北陸から平泉を目指す義経一行が、佐藤継信・忠信兄弟の母の館で山伏接待(やまぶし・せったい)を受ける話は、幸若舞「八島」、謡曲「接待」、奥浄瑠璃「尼公物語」などにほぼ同様の形で伝えられています。
 元禄年間(1688~1704)にまとめられた『奥羽永慶軍記(おうう・えいけい・ぐんき)』に、天正年間(1573~93)に奥州白河で座頭(ざとう)が「尼公物語」という浄瑠璃を語ったとあり、それは「奥羽ノ佐藤兄弟」の事を語るとありますので、奥浄瑠璃「尼公物語」のことと思われます。
「頼朝に追われた義経一行は、出羽国から平泉へ落ち延びる途中、信夫の里(現福島市付近)に立ち寄り、荒れた屋敷に宿を求める。その屋敷は、義経の家臣となった佐藤継信・忠信兄弟の母の尼の館であった。
 尼は、諸国を回る山伏ならば義経の行方を知っているかもしれないと尋ねる。この尼が、佐藤兄弟の母であるとことを知った弁慶は、身分を隠し、余所ながら見たこととして、兄の継信が最期を遂げた八島(屋島)合戦の様子を語り、さらには、弟忠信の最期のことも話す。尼の泣き嘆く様子を見て、義経は心を動かされ、身分を明かす、云々」

◆義経主従への熱い思い
 「尼君物語」は、諸国を廻る山伏を接待することによって、逃避行を続ける義経の消息を探り出し、そこから義経に従って出陣した我が子継信・忠信兄弟の消息を知ろうとする母の思いが強く滲み出ています。
 弁慶が屋島合戦の様子を語り、義経が身分を明かすのも、母である尼の気持ちに動かされたものでした。
『義経記』以外の諸芸能にも詳しかったと思われる芭蕉であるからこそ、兄弟だけでなく、その父、母、妻など一族へも思いをいたして、このような構成にしたのではないでしょうか。

館長コラム
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

2024年えさし郷土文化館館長退任

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